三体に気になる記述があった。
名画とされる「清明上河図」と、ただ空にあるかないかわからないような雲1つの写真、どちらの情報量が多いか?答えは後者で10倍から20倍の情報量があるという。
わーい、自分が撮っている写真はもっと情報量ががある筈、などと喜んだら莫迦だ。どういう論理でそうなるのか調べねばならぬ。
ググってみるが、情報量の多い写真は清明上河図寄りのものばかり。三体のこの記述に関する説明は見つからなかった。
”情報理論 情報量”でググると難しい数式の山、私の生体CPUが熱暴走しクラッシュする怖れを感じたので、そっとページを閉じる。少し頭が痛くなった。
要はドローソフトとペイントソフトの両者のファイルのデータ量の事なのだろうか?だとしたら鼻白む。同書の記述ではもっと深遠な事を言っているように思える。
科学的な意味での情報量はそうなのだとしても、我々一般人が感じる情報量は圧倒的に清明上河図だろう。大勢の人が居て多彩な振る舞いをしている。我々はそこから多くの情報を受け取れる。雲の写真は青空に雲が有る事しか受け取れない。
駄菓子菓子、青空に雲のような単純な構図に深遠な意味を持たせる事は可能だ、とも思う。
何度か書いているが富岡直子さんの絵画に深く感銘を受けた。抽象画と受け取る人も多いと思うが、私は風景画だと感じた。風景画はこれで良いじゃん!と。
それ以降、私も彼女をパクろうと思わなくもない。感動の中心だけ撮れば良い、それ以外の不純物は要らない。
つまらないつまらないと撮っていた写真を提出したら先生に散々叱られた。
先生に「沢山撮りなさい」と授業ではなくトークショーの動画で言っていたのを聞いて心がけたのだが方法論が違った。私自身が沢山撮れるような環境に身を置くべく努力すべきだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する