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2020年02月19日05:25

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早すぎた尊皇思想家、高山彦九郎と天明の大飢饉(後編):執拗な幕府の追及の前に非業の自刃

 東北諸藩の飢餓地獄の後を通り抜け、高山彦九郎は京に出た(写真=御所望拝の像)。

◎知己の家に泊まり歩く
 過去2度、京に滞在してことで知り合った公家の間を回り、熱心に尊皇の心を説いて回った。
 儒学者として学識が深く、また交友関係も広かったので、江戸滞在中と同様、京都でも知己の家に滞在、いわゆる居候をした。今風に言えば住所不定の身であった(出身の上野国新田郡細谷村=現群馬県太田市=は、幕府に睨まれ、かつそりの合わない実兄から排斥されていたので自宅のあった細谷村には帰れなかった)。ちなみに江戸滞在中は、オランダ語書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白らと共に翻訳し、『解体新書』を出した前野良沢の世話にもなっている(写真と絵)。

◎有力な藩である薩摩を頼りに九州へ
 京に滞在中、朝廷と幕府との間に持ち上がっていた「尊号一件」(閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議)が持ち上がった。
 この一件で、彦九郎は幕府のはるか風下に置かれていた朝廷の政治的発言力を一挙に高めようと図った急進進歩派公家に依頼され、西国最大の雄藩である薩摩藩の助力を求める密使として薩摩藩領内に潜入した。
 東北旅行でもそうだったが、この旅でも各地の友人宅に泊まり、旅籠をほとんど使わなかった。ただ、京に滞在中から幕府・京都所司代から不穏人物視されていた彦九郎には、ずっと尾行が付いていた。
 無事に薩摩に入り、藩主からも歓迎され、尊号一件で薩摩藩の力を借りる見通しも付きかけたが、結局は幕府との間に軋轢を生じることを懸念する藩内主流派に排斥され、工作は失敗に帰した。この工作は、幕府にも知られるところとなった。

◎漂白の末、久留米で自刃
 京へ戻れば、捕縛され、死罪になる。
 彦九郎の前に宝暦事件、明和事件でいずれも尊王論者が重罪に処せられているし、知己の林子平が幕府の海防無策を突く『海国兵談』出版企図で蟄居させられている。林より直截に幕府批判を諸所で行っていた彦九郎の罪状は大きかった。
 万策尽きた彦九郎は京にも戻れず、九州各地を放浪した末、頼った中津藩領や臼杵で幕府の差し金や意向を気にする藩重役たちによって藩領を追われ、最後は最も温かく迎えてくれた久留米藩の友人宅で自刃した。時に46歳だった。

◎ペリー来航60年前に死す
 幕藩体制が大揺れを始めたペリー来航の60年前の自刃であった。そのため、彼の思想が脚光を浴びるまで、長く忘れられていた。
 しかし後に吉田松陰や西郷隆盛など、薩長の指導的人物に、彼の尊皇思想は強い影響を与えた。時節柄、その尊皇思想は、尊皇攘夷へと変わりはしたが。
 最後にあらためて思うのは、驚くばかりの幕府の探索の執拗さである。しかもほぼ正確に彦九郎の在所を突き止めている。それは、伊予宇和島藩まで逃亡し、藩主に匿われていた高野長英の行方を突き止めたことでも知られる(20年1月19日付日記:「『火事と喧嘩は江戸の華』と言われた江戸時代に大火災で『切り放ち』で解放された伝馬町の囚人たち(後編):ついに逃げ切れなかった偉才・高野長英」を参照)。
 また「桜田門外の変」以降と違い、あの薩摩藩すら幕府を恐れさせた当時の幕府の権威の高さも分かる。
 彦九郎がいかに巨大な「ゴリアテ」に挑戦していたかを思い知るのである。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202002190000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:ネパール旅行のため休載

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