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2020年01月17日05:08

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「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸時代に大火災で「切り放ち」で解放された伝馬町の囚人たち(前編);逃亡犯には厳しい追及と過酷な処罰

 火事の多い季節だ。
 昔、子ども時代、居候していた家が火事で丸焼けになり、教科書まで失った体験があるだけに、火事は怖い。

◎明暦の大火で初めて行われた囚人の「切り放ち」
 しかしかつて、その火事を心待ちにしていた集団がいた。
 江戸時代、伝馬町の牢に閉じ込められた囚人たちである。江戸は、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、火災の頻発した都市で、しょっちゅう大火が起こった。彼らの希望は、「赤猫=火事」で延焼地が広がり、伝馬町の牢まで火勢が押し寄せてくることだ。猛火が迫れば、「切り放ち」が行われたからだ(絵)。
 最初の「切り放ち」は、1657年の明暦の大火で断行された(絵=明暦の大火)。伝馬町牢屋敷の長官である牢屋奉行の石出帯刀が、囚人を猛火から救うために、独断で「切り放ち」を行った。

◎切り放ちの囚人は全員が戻った
 彼は「切り放ち」に際し、囚人たちに「大火から逃げおおせた者は、明日暁までに下谷蓮慶寺に戻れ。戻った者は、死罪の者も含め、私の命に替えても汝らの命を助けるだろう。だがこの機に乗じて逃亡する者があれば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」に宣言した。
 事実かどうかは分からないが、全員が約束どおり戻ったという。
 これに感銘した石出帯刀は、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府も収監者全員の減刑を実行した。

◎逃亡犯は厳しく追及され、ほぼ全員が捕縛、後に獄門
 以後、江戸期を通じてこれが慣例になり、「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪」とするようになった。
 しかしやはり全員が戻ったわけではない。切り放たれた数百人のうち、数人はやはり戻らなかった。
 この場合の、探索は厳しく行われ、ほとんどは捕縛されて獄門に処せられた。
 実際、驚くべきことだが、指紋検査も顔写真もない時代にも、探索はほとんどぬかりがなかった。かなりの高確率で、逃亡犯は捕縛されたのだ。
(この項、続く)

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