知人が引っ越しした。子どもが大きくなって家を出たので、戸建てを売って中古マンションの一室を買ったのだ。
◎引っ越し10回くらい
そういう家は、けっこう多いらしい。ただバブル期に郊外に家を買ったファミリーは、子どもが都心から遠すぎることを嫌ってすぐに家を出て行く。後には、駅からも遠いために売れない不良資産となった戸建てに高齢者夫婦が残るパターンだ。
知人は、幸い、駅近の家だったので、ともかくも売れた。それで、中古マンションに買い換えられた。
引っ越しは、僕も何度も経験がある。最初の大学入学に伴う下宿に始まって、生涯、10回くらいに上っているかもしれない。読者の皆さんは、どれくらいあるだろうか?
その度に困ったのは、夥しい蔵書である。最後から2回目からは、どんどん捨てていた。それでも、なお捨てきれずに残った本が、今も一室を占領している。これも、いずれは不良資産である。
◎大名は転封で墓はどうしたのか
さて、引っ越しで連想したのだが、江戸時代、大名が転封された時、先祖代々の墓はどうしていたのだろうか。
加賀百万石の前田家は、藩祖の前田利家が秀吉に加賀国を拝領して以来、明治まで動かなかった希有な例である。利家自身は尾張の出だが、加賀に土着して、根が生えたように動かなかった。
将来も動かないことを予期していたのかどうか分からないが、今も金沢市南郊外の野田山の最上部に、小型ピラミッドを思わせる大きな土塚の墓が残る(写真)。賢婦人とされた「まつ」の大きな土塚も隣にある(図)。
ただ家康にたてついて、関ヶ原の戦いのきっかけを作った上杉家は、17代当主・上杉景勝の時に、関ヶ原後に報復として出羽国米沢に移転・減封された。この時は、墓も引っ越ししたらしい。
◎江戸時代の転封ではほとんど墓は捨てていった
江戸時代になっても、転封はあった。ただ江戸幕府になってその領地を得た藩が多く、あまり「先祖代々の墓」という意識は強くはなかったのか、転封の際もそのまま捨てていったとされる。そして、新しい領国に供養塔を建てた。
藩主がそうなら、家来も同じだ。さぞかし昔の墓所は荒れたであろう。
現代は、若い世代が家を継いだ家族を中心に、「墓じまい」が進んでいる。郷里とはいえ、今は親もいない遠くの墓に執着することはない。彼らは、とっくに近くの新開発の墓地に墓を買っているのだ。
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