mixiユーザー(id:1833966)

2019年11月26日05:30

173 view

樺太紀行(62);鉄道歴史博物館で多くの日本の名残を見る

 クラブツーリズムは、鉄道歴史博物館にドルで多額の見学料を払ったらしく、案内してくれる館長は上機嫌で、野外展示の機関車や列車に、「どうぞ、どうぞ」とばかり自由に立ち入らせてくれる。

◎皇太子?、それとも別の皇族? 記念写真の展示
 ある車両に入ったら、なんと日本統治時代の写真を何枚も組み合わせたものが車内展示されていた(写真)。
 中央の日章旗の下で整列しているのは、誰か貴人が訪れた際の記念写真である。軍服を着ている男性の隣に和服の美しい女性が座っている。
 館長に聞き漏らしたが、ひょっとすると1925年(大正14年)に樺太を訪問した皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の写真ではないか、と思ったが、当時はまだ樺太鉄道は開通していないはずだ。しかしそのための起工式か何かで樺太庁を訪れたものとも推定される。
 聞き漏らしたのは、何としても残念だった。
 別人で誰か皇族夫妻だったかもしれない。

◎無の原野に鉄路を敷いた日本の努力を思う
 この写真の上の広場の写真は、当時の豊原駅前なのだろうか。
 さらに1番下には、ループ式の鉄路を走る機関車の写真もある。
 何も無い山野を切り拓き鉄道を敷設し、街を創り、また農地を拓いた(写真)。日本は南樺太にどれだけのカネと労苦を注ぎ込んだのだろうか。それを、そっくり火事場泥棒のスターリンに奪われたのだ。その無念さを思う。

◎「JR東日本」と「新潟鐵工所」のプレートを見る
 他に興味を引いたのは、あるDLの「JR東日本」と「新潟鐵工所」のプレートが残されていたことだ。年数は昭和39年、すなわち1964年、となっている(写真)。まだ国鉄が健在で、分割民営化のずっと前である。
 1987年に国鉄は分割民営化され、JR東日本が生まれる。だからこのDLは、それ以降にまだ動いていたことになる。その後、旧ソ連のサハリン州に輸出され、ここでしばらくは走っていたのだ。
 感慨深いのは、製造した新潟鐵工所である。DLなど機関車や貨車、船など交通機関の他、様々の機械も作り、「機械のデパート」とも呼ばれていた。ところがあまりにも多角化したため、傑出した得意分野がなく、2001年に会社更生法を適用申請し、倒産している。
 その名残を、サハリンで見かけようとは思ってもいなかった。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201911260000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「大阪万博再び、対抗馬のロシア、エカチェリンブールクは血塗られた都市、勝ててよかった」

4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930