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2019年10月19日05:51

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樺太紀行(56);サハリン北部を襲った地震で街の人口の4分の3が死に街が消えた社会主義の暗部をさらす?記念碑を観る

 レーニン像が東端に立つ公園のレーニン広場は、ほぼワンブロックを占める。そして、その西の先にユジノサハリンスク駅があった。

◎公園の駅前の区画に謎の記念碑
 今は、サハリンの鉄道は、日本統治時代の狭軌からロシア本土の軌間の1520ミリに付け替え中だ。そのため全線で運休していて、僕らもツアーのうたい文句であった樺太鉄道に乗れなかったわけだ(18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」を参照)。
 僕は、レーニン広場を一周した(写真)。
 すると、駅前のロータリー、駐車場の隣に、羽を広げたような記念碑が据えられていた。三方を植栽で囲っている(写真)。

◎地震犠牲者の慰霊碑だった
 例によって、キリル文字だけだ。僕の錆び付いたロシア語能力では読めない。辛うじて台座の一番下の日付だけが分かった。1995年5月28日か。何かの記念碑で、それがこの日に起こったのだ。
 後に僕たち一行が、駅隣の鉄道博物館を訪問した折、ちょっと自由時間があり、その時、現地ガイドのヴァレンティンさんが教えてくれた。
 地質の安定した樺太には珍しく、この日、大地震が発災し、多数の犠牲者を出した慰霊碑なのだという。

◎1995年5月に北サハリンでM7.6の地震
 「パーミャトニク・ジェルトヴァム・ネフチェゴルスコーヴォ・ゼムリャトレーセニヤ(Памятник жертвам Нефтегорского землятресения)」、すなわちネフチェゴルスク地震を忘れぬための記念碑、という意味だ。これは、後で日本に帰ってから調べて分かった。
 ネフチェゴルスクとは、サハリン北部にあった街だ。この付近でM7.6の地震があった。なみに地震規模は、日本なら年に1度くらいは起こる規模だ。
 ところが大被害となった。発災はソ連崩壊後3年余だ。つまり建物は、ソ連時代のものばかりだった。
 それが悲劇を生んだ。

◎ソ連時代の建物が倒壊し、ネフチェゴルスク住民の4分3が死亡
 実にネフチェゴルスク住民約3200人のうち、4分の3近い約2400人が死亡した。生存者は、たった800人ほど。文字どおり壊滅した街は、ついに再建されることはなかったという(写真=瓦礫と化した街の惨状)。
 前述のように規模は、さほどでなかった。だから上の写真でも見られるように、木造住宅にはほとんど被害がなかった。
 ところが耐震性が全く考慮されていなかった鉄筋コンクリートのアパート40棟の半分が倒壊か大破、残りの11棟も中破した。40棟のうち17棟は、瓦礫の山と化した。鉄筋も、ほとんど揺れに役立たない細い物だったに違いない。

◎社会主義ソ連の恥部をさらす(?)記念碑
 いかにも官僚主義的・社会主義的な犠牲である。
 ちなみにその後の調査で、地震を起こした断層は、過去にも何度かずれて、地震を起こしていたことが分かった。
 日本では、考えられない地震禍である。
 なおユジノサハリンスクは、震源地のネフチェゴルスクからかなり遠い。だからユジノサハリンスクでは被害はなかったはずだ。
 それでもサハリン州の州都だから、駅前に記念碑を設置したのだ。ロシア人はそれと意識していないとしても、僕から見れば社会主義ソ連の恥部の記念碑である。死ななくともよい人々、多数が犠牲になったのだから。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201910190000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「再び湯河原へ、低山ながら秋の城山に登る」
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