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2017年11月14日15:26

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祖母との思い出

11月11日(土)夜、祖母が亡くなった。98歳だった。
金曜日の夜に妹から「具合が悪くなった」と連絡があり、ちょうど日曜日が新マンションの内覧会だったので、それが終わってから帰省しようと思っていたけど、間に合わなかった。
今年の4月終わりに腰の圧迫骨折で入院し、その後誤嚥性肺炎になり、それでもそこからまた復活して、病院で過ごしていた。今年のお盆に帰省した時には元気だった。
祖母の母(私のひいおばあちゃん)は104歳で亡くなったので、祖母もまあ100歳までは大丈夫だろう、と勝手に思っていた。
好き嫌いのはっきりした祖母だったが、初孫の私はとても可愛がられた。「お経も菊の花も嫌い」という祖母の希望で葬儀はしなかった。私が日曜の夜に帰り、月曜の午前中に火葬場まで一緒に行った。ただそれだけの最期。いかにも祖母らしい潔さだ。

祖母との思い出をいろいろと思い出してみると、なんと泣けるエピソードが一つもないことに驚いている。
大正生まれで、戦争を経験しているはずなのに、私が知る限り祖母の人生は自由気ままで、悲しみの影はあまりない。
本当かどうかわからないが、足利尊氏の血筋で「世が世なら小倉城に住んでいた」というお姫様で、気位が高くいつもシャンと背筋を伸ばしていた。
女学校を出てすぐに10歳上の祖父と結婚した時は、お手伝いさん付きで嫁いできたそうだ。19歳で私の父を生み、それから戦争が始まり、祖父はシベリア抑留へ、祖母は6歳の父を連れて満州から引き揚げてきた。
引き揚げる途中、父が高熱を出した。当時25歳の祖母は「ああ、この子はもう駄目だろう」と思い、「よし、今持っているものを全部売って、最期にお腹いっぱい食べさせてあげよう」とたくさんのバナナを父に食べさせた。すると父はみるみる元気になった。そしてそこからまた2人で逃げた。
その時の若い祖母の決断がなかったら、私も妹も生まれていない。父はいまだに体調が悪くなるとバナナを食べて治している。

2時間サスペンスと相棒が大好きな祖母。相棒がミッチーに替わった時は、「今度の人はいっちょん好かん。亀山さんが良かった」と漏らしていた。
ワイドショーも大好きで、政治から芸能まであらゆる分野を熟知して、テレビに出ている並みのコメンテーターよりも時に辛辣で、時に面白いコメントをする。
たまにうろ覚えの情報だと、自分で適当に話を作り、生真面目な母から「おばあちゃんそれ違うよ」と指摘されると、「あら、そうやったかね?」とペロッと舌を出す。
50代で乳がんにもなった祖母。お風呂に入っている時に自分で胸のわずかなしこりに気づき、次の日病院へ行き、がんだとわかると「あ、じゃあもう全部取ってください」と医師も驚くほどの即決だったという。
私が買ったばかりのスカートをはいていると、目ざとく見つけ、「あら、あんたそれいいやない。いくらやった?」と必ず値段を聞く。そんな所を母は嫌がっていて、まったく正反対の性格の2人の間で話していると、私はこのどちらの血も引き継いでいるんだなあと不思議な気分になった。愚痴っぽい母と決して愚痴を言わない祖母。まあ、「孫に愚痴るおばあちゃん」というのはいないのかもしれないけど、本当に祖母が愚痴っぽいことを言っているのを聞いたことがない。あまり後ろを振り返らない、常に前を向いている、そんな感じだった。私が話すことには、リアクションが大きく、面白い話だと大うけしてくれるので、祖母には話し甲斐があった。

まだまだいろんなことがあったけれど、これからも折に触れて思い出すのだろう。
私は「人が亡くなる」ということは、形が無くなっただけで、それぞれの人の心の中にその人が分散しただけだと思っている。だからその人を覚えている人がいる限り、その人は「亡くなって」はいない。これから私が死ぬまで、心の中で祖母も一緒に寿命をまだまだ延ばしていく。
じっとしているのが嫌いだった祖母。よく7ヶ月間も病院のベッドの上でおとなしくしていたものだと思う。今頃やっと自由になって「やったー!」とどこへでも飛び回っているかもしれない。今度引っ越す新マンションにも、ぜひ遊びに来てね。おばあちゃん。

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