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2020年01月18日21:13

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六本木から府中まで歩いたことがある


 今日の日中は晴れて暖かく、庭の掃除をコツコツやった。昨日からまた風邪気味ではあるが、寝込むほどでもなく、普通に仕事はできる。

 さて、いわゆる世田谷一家殺害事件、のことは当時は気にもかけなかった。ちょうど学位の取得寸前で、年始早々にもつくばへ引っ越す予定だったので、なんだかんだと忙しかった。犯人の血液型とか、プロファイリングなんかを読むと、割と私と一致する点もあったりするが、事件の現場はどこなのかもよく知らない。
 東京に住んでいた、といっても東京には2000万人もの人が住んでいて、誰が住んでいるなんて、となりの人ぐらいしかわからないのである。上祖師谷も地名は聞いたことがあるが行ったことはないのでどんなところかも知らない。
 ただ、事件の記憶を呼び覚まそうとするため、「どんなことでも良いから情報提供を」というニュースは毎年流れる。しかし、その年の後半は学位論文の執筆追い込みと、印刷やらなんやらで、とても忙しくほとんどを研究室で過ごしていた。アルバイトは理研でやっていたので和光の本部へは時々行っていたのだが、全然違う場所だしね。というか、有楽町線に乗っていくので、地上に出ることなく和光まで行く。そー言えば、便利なので、「営団全線定期」というのを買って使っていた。これは営団線すべての路線が乗り放題になる定期券で、都内を日々あちこち行く人には割と便利。確か一か月1万6千円ぐらいだったか? 今は運営会社が東京メトロとなっている、同じタイプの定期券があるのかどうかは知らない。
 今日引用の記事を読んで、改めて地図を見てみたりしたが、まあ全然知らない場所なので、何も提供できる情報はない。のだけど、思い出せることがあれば、と思って思い出したのが、表題の話。
 友人の演奏会が府中であったのだが、交通費をねん出するのもつらい時期だったので、六本木から延々と歩いて府中まで行った覚えがある。事件とは全然関係のない夏ごろの出来事だったか。たぶん国道20号線を進んで行ったんだよね、その時に近くを歩いたかもしれない。
 六本木から渋谷を抜けて行った記憶があるので、歩いていくなら今の都道118号線を通っているだろうと思える。この場合、上祖師谷二丁目辺りを通ることになる。府中までは確か歩いて4時間も掛かった。我ながらばかばかしい限りだが、本当にお金が無くてつらい時もあって、お米を炊いておにぎりを作って、それを持って、千駄木から六本木まで歩いて通っていたこともある。通学が片道1時間半ぐらい。理研のバイトには9月に採用されて、10月から仕事をしていたと記憶しているので、夏ごろはまだ営団全線定期はもっていなかったはず。それで、歩いてどこへでも行く、という生活スタイルだった。

 そんなんで、事件に関するような情報は何も持ち合わせていない。犯人のプロファイリングの一部が私と一致するからと言って、私には動機もないし、その年の年末のことを思い出すと、12月に理研に出すレポートを準備してはいたのだが、ちょっと間に合わなくて、年の瀬も迫ったころに母の体調が悪いらしいと電話があったので、12月のレポートは出さずに仕事納めより前に実家に戻った記憶がある。仕事納めは大体12月28日ごろだろうから、それより前だと12月27日か26日かだろう。アリバイもある。てか、事件のあったときには実家にいたので、私が何か知っているわけもない。
 というので、何も知らないこと、が分かったというだけでご容赦願いたい。

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■世田谷一家殺害事件、現場の家を公開 遺族「壊せない」
(朝日新聞デジタル - 01月18日 17:10)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5940480

 2000年暮れに起きた東京・世田谷一家殺害事件の現場となった家の内部を、遺族が18日、朝日新聞などに公開した。保育園児や小学生まで家族4人が殺された事件は社会に大きな衝撃を与えたが、未解決のまま19年がたった。昨年、遺族は老朽化した家の取り壊しを警視庁から打診され、決断を迫られている。報道公開を決断した入江杏さん(62)は、「事件が忘れられていく中で、現場を取り壊してしまっていいのか。このまま何もせずに家を壊してしまうことはどうしてもできない。4人が狭い家で、つましく一生懸命生きていたことを、4人の人生の肌触りを知ってほしかった」と語った。

 公開されたのは、東京都世田谷区上祖師谷3丁目にある会社員宮澤みきおさん(当時44)宅。みきおさんと妻の泰子さん(同41)、長女にいなちゃん(同8)、長男礼君の一家4人が暮らし、隣接する家に、泰子さんの姉の入江杏さん一家と姉妹の母が暮らしていた。当時、英国と行き来していた入江さん宅のリビングで、泰子さんが学習塾を開き、たくさんの親子が出入りするにぎやかな場所だったという。

 しかし、事件後まもなく入江さんも家を離れた。一帯は都の公園予定地だったため、更地にして売却する話が進んでいた。4人の変わり果てた姿をみつけた姉妹の母(故人)は「家を二度と見たくない、早く壊して」と望んだが、警視庁から家屋取り壊し延長の要請が2001年にあり、「つらい思いをしても協力してきた」。年末になると捜査員が宮澤さん宅前で献花するなど、未解決事件の象徴的な場所にもなってきた。

 その後、家の中の状況を警視庁が3D映像にするなど証拠保全が完了。家屋が老朽化して倒壊の危険もあるとして、昨春、警視庁が取り壊しの打診をした。入江さんは、家を壊せば風化がさらに進み、「事件がなかったことになってしまうのではないか」と葛藤した。

 入江さんが今回、公開を決意したきっかけは、昨年12月26日付で警視庁成城署長名の「要請解除通知」の紙を渡されたこと。建物についての証拠保全が完了したため取り壊し延長の要請を解除する、と書いてあった。命日の直前で「なぜ、1番つらいときに」と一方的な要請に感じたという。4人の衣服などを返還してもらえることになり、写真を見返すなどして当時に引き戻される日々を送っていた。家の防護ネットや24時間警備も早晩やめると告げられたといい、時間がないと感じたという。
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