mixiユーザー(id:18012799)

2020年01月22日14:27

181 view

大阪メトロについて その5

6.露骨な妨害工作

戦後、東京と大阪とは、都市交通政策の面において、完全に別の道を歩み始めます。

東京は、都電や都バスはそのままに、営団として発足した地下鉄建設が、国主導で進められていきます。

しかし、東京都も手をこまねいているばかりではありませんでした。

何度も国に対して、営団の譲渡を打診したものの、営団の計画路線の大部分が、元々私鉄が申請したものであり、それを譲渡されて保持しており、東京都の計画と相入れないものでした。

さらに、戦後、私鉄の保有している株式が国に譲渡され、さらにそれが国鉄に譲渡されたことにより、運輸省の強い関与が残り、もう一方の株主である東京都の発言権は制限されてきました。

これが、後に東京都の交通網の整備においては、利点として働くことになります。

しかし、東京オリンピック開催をきっかけに膨張速度がすさまじくなってきた東京都の交通に対して、営団だけでは対処できなくなってしまいました。

そこで、東京都にも地下鉄建設の権限を与えることになり、旧京浜が保持していた免許を譲渡して、現在の浅草線の建設が決まります。

その際にの条件として、京急と京成との相互乗り入れが義務付けられたのです。
これが、日本最初の地下鉄と郊外鉄道との相互乗り入れになるのですが、国の強力な関与がなければ、実現していなかった可能性は高いともいえます。

しかし反面、需要の少ない路線の建設を任せられた東京都は、6号線(三田線)において東武と東急に裏切られ、10号線(新宿線)では、他の線区と規格の異なる京王との相互乗り入れを行うことになるなど、「無理やり」営団から奪った背景もあり、効率的でない経営を強いられることになるのです。



翻って大阪。

国からの関与が少なかった大阪は、完全に大阪市の独壇場になってしまいました。

大阪市が取った戦略は・・・

戦前、戦後にかかわらず、私鉄などが出してきた新線計画に対して、大阪市がほぼ同じ路線の免許(特許)を申請して、私鉄に敷設免許を降ろさせないという戦略です。

戦前の東大阪電鉄、近鉄阪奈線計画などは言うに及ばず、余りの露骨さに閉口してしまうものばかりでした。


現在の四つ橋線 難波〜西梅田は、当初、高速道路建設のために埋め立てられる西横堀に、南海が西横堀線を申請していました。

しかし、御堂筋線に並行する路線である上に、御堂筋線の混雑緩和を考えていた大阪市は、隣接する四ツ橋筋に四つ橋線を計画します。
(大阪市としては、市電の幹線であった南北線の走る四ツ橋筋の地下に地下鉄を建設をしたいのは当然の事)

これが東京都であれば、南海と地下鉄の乗り入れによる混雑緩和と考えるところが、大阪市は真正面からの妨害を行います。

それは、御堂筋線の支線であった大国町〜玉出(3号線)の路線をそのまま北進させて、四つ橋線にするということです。

御堂筋線の支線=第三軌条であり、南海の電車は乗り入れることができません。

結果、西横堀線計画は実現できませんでした。
しかし、後に述べますが、なにわ筋線が汐見橋経由から難波経由に変更されたことにより、間接的にこの時の計画がよみがえることになっているのです。



さらに、阪神と近鉄が、それぞれ路線を建設して、野田〜鶴橋間の新路線を経由した相互乗り入れを画策します。

すると、全く計画の無かった千日前通りに大阪市が地下鉄を作る構想があるとして、千日前線構想(5号線)を打ち出します。

これによって、野田〜鶴橋の阪神、近鉄の直通計画も潰えてしまいます。
こちらも、大阪市が地下鉄建設を行って相互乗り入れをしていれば、千日前線が未だに4両編成で、真っ先にワンマン化されるようなことにはなっておらず、大阪の地下鉄における東西軸になっていた可能性があります。

結果的に、近鉄は難波までの乗り入れを実現させ、野田からの延伸をあきらめた阪神は、中途半端なローカル線に甘んじていた伝法線(後の西大阪線)を延伸して、難波を目指すことになります。

この路線には、紆余曲折と数々の逸話が残されています。

まず、近鉄の難波乗り入れですが、これが許可されたことに市営モンロー主義と相いれない違和感を感じる人も居るでしょう。

これは、大阪万博開幕を控え、早急な路線網整備を急ぐ必要に駆られた大阪府、国が主体になり、運輸審議会で近鉄の難波乗り入れを強行的に認めたことによって実現した背景があります。

しかし、阪神の乗り入れに関しては、伝法線の千鳥橋から西九条までの延伸を認めた(千鳥橋は市電との接続駅であったが、市電の廃止計画があったために、西成線→大阪環状線への接続のために認可)以降は、路線延長計画は認めら工事が一部で進んだものの、10年前まで停滞を余儀なくされてしまったのです。

これは、途中の通過地点である九条商店街などの反対があったこととされているのですが、実は、反対運動を裏で主導したのが、大阪市と政治家であったというのが実態であり、大阪市のドス黒い面が透けて見える一例です。

しかし、JR東西線などを経て大阪市の関与する影響力が弱まるにつけ、阪神なんば線が実現し、高い乗車率と増発が繰り返されて行きます。

桜川〜鶴橋で並走する千日前線が膨大な赤字で悩むのを横目に、高い利益率を出しています。
大阪市の市営モンロー主義の最も露骨な事例ともいえるでしょう。


もう一つに、堺筋線があります。

堺筋は、御堂筋開通までは大阪のメインストリートであったこともあり、市電の大幹線の一つでした。

この堺筋に、地下路線を最初に計画したのは、またも南海でした。

南海は、天下茶屋から分岐する天王寺支線からさらに分岐し、堺筋の地下を北上して扇町付近で左折して梅田を目指すものであり、西横堀線に変わる計画でした。

さらに、阪急も新京阪時代に持っていた国鉄天満駅への乗り入れ計画をさらに南進させ、大阪市内中心部への乗り入れを画策します。

これに対して、市電の地下化名目で、大阪市は6号線計画を出します。

この事態に、大阪府と国は、「またか」とあきれたことと思います。
しかし、やはり大阪万博が迫っている中、無駄な対立で事態を長引かせるのは得策ではない。

さらに、御堂筋線の北進だけでなく、阪急千里線の北進と京都戦に途中駅を設ける万博アクセス鉄道を大阪都心に導くためにも、堺筋線を実現させる必要がある。

結果、国と大阪市の仲介により、阪急と大阪市の相互乗り入れが決まり、大阪市初の郊外路線との相互乗り入れが実現することになります。

この決定により、線路幅が異なる南海の堺筋線計画は不許可になり、またも北大阪進出計画は水泡に帰します。

代替として、堺筋線の天下茶屋乗り入れが約束されたのですが、それが実現したのは、堺筋線開業後20年を経過してからの話・・・。

戦前の京阪とともに、市営モンロー主義の最大の被害者は南海とその沿線の住民であるともいえます。


しかし、こうして決定した堺筋線も、大阪市の露骨な妨害により、一筋縄ではいきませんでした。


6-2 露骨な妨害工作 その2 に続く。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する