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2019年12月12日16:04

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大阪メトロについて その3

4.市営モンロー主義の暴走 

鉄道に関しては、法令を用いて大阪市内の交通を独占することに成功した大阪市。
市電用に発電していた電力を売電していた大阪電灯株式会社を買収、大阪市内の配電事業にも乗り出し、第一次世界大戦の好況も手伝い、「大大阪」「東洋のマンチェスター」と呼ばれた大都市を支える独占企業体になります。

しかし、勃興したばかりのバス事業では出遅れてしまいます。

車体を深緑色に塗装していたために、通称「青バス」と呼ばれた大阪乗合自動車がそれ。

そこで、大阪市は大慌てで乗り合いバス事業の免許を取得して、銀色に塗装した「銀バス」として、並行する路線を運行し始めます。

その「戦い」は血みどろの戦いと例えられるほどの物でした。
あくまで私企業の大阪乗合自動車は、過激な値下げ競争を挑まれ疲弊していきます。

ついには所轄の内務省から調定が入り、大阪市が青バスを合併吸収することで決着。
再び、大阪市内の交通に関しては、独占的な地位を確保することになりました。

しかし、すでに鉄道免許を持っている近鉄、阪神などの鉄道代替路線としてのバス路線は認めざるを得ず、今に至ることになります。


しかし、あの青バス騒動により、大阪市の頑なな市営モンロー主義が伝わることになり、私鉄各社の大阪市内乗り入れ構想が、停滞する原因になっていきます。


そんな中、事業拡大を進めていた京阪が、淀川右岸(吹田、高槻市側)に、京阪間を結ぶ高速新線を計画します。

当初は、淀川右岸から淀川を渡り、野江付近で京阪本線に合流、さらには城東線(現大阪環状線)の高架化で出来た土地の払い下げを受け、梅田への進出を試みようとしました。

このころには、梅田周辺は大阪の中心地の一つに育っており、そこに新たな鉄道の乗り入れを試みることに対して、大阪市が不快感を示し、結局大阪市が許可をしなかったために、計画が一時頓挫しかけます。

しかし、大阪市域外については大阪市の権限がないことから免許されたために、大阪市は
「新たなターミナルを設けることで許可をする」
としたのです。

しかし、すでに大阪市は巨大都市として飽和状態に達し始めており、大阪市内に乗り入れるのは困難。
そこで、大阪市の北東部にターミナルを設置する計画を持っていた、当時、十三〜千里山を運行していた北大阪電鉄を買収、免許条件であった子会社の新京阪電鉄を設立し、資金面で建設を行っていなかった淀川橋梁を建設して、天神橋筋六丁目に乗り入れたのです。

開業当時の新京阪天神橋駅は、大きなターミナルビルを構えており、2面4線のホームを持つとともに、このビルを貫通してさらに南進、国鉄天満駅まで延伸する計画を持っていました。
完成時のビルの構造は、これに基づいたものでした。

今、天神橋筋六丁目交差点北東に、阪急不動産の経営するタワーマンションが建っていますが、このマンションの敷地こそが、当時の天神橋駅で、平成20年ごろまで各所に面影が残っていました。

しかし、時代が少し下がって京阪の経営が悪化、新京阪の統合、さらには戦時統合で京阪自体が阪急に吸収されてしまい、戦後に分離独立した際には、虎の子の旧新京阪線部分が阪急に取り残されることになり、今の形になりました。

歴史にもしは禁物ですが、もし京阪の当初計画通りに、野江での合流、梅田乗り入れが実現していれば、新京阪線は未だ、京阪の路線であったのは間違いないと思われます。

戦時統合が行われた際の運輸政務官には、阪急の総帥小林一三が居たのですから、十三で接続する路線を用いて、京都への進出を狙っていたことが容易に想像がつきます。

京阪は、創業時といい、新京阪線と言い、大阪市の市営モンロー主義に翻弄され、戦後も同様に翻弄され、最大の犠牲者の一人となったともいえます。


小林一三が、大阪市の市営モンロー主義を巧みに利用したことは、大阪市営地下鉄建設の際に、国の代表的な立場として意見をしていたことからも、うかがい知れます。


大阪市が地下鉄を計画した際に、当時の関一(せきはじめ)市長は、今までの市電拡張の際に新たな街路を作るために、市電を通す道路の拡張を行い、大都市にふさわしい交通路を作っていったのですが、地下鉄でもそれに倣うことを計画します。

当時の大阪市のメインストリートは、堺筋でした。
これは、多くの百貨店が堺筋沿いに作られており、三越、高島屋、白木屋、松坂屋などが軒を連ねていました。

後の時代に、北浜というビジネスの中心街になぜ三越があるのか?やや不便な日本橋三丁目に松坂屋(後の高島屋東別館)があるのか?という疑問は、当時の大阪のメインストリートが堺筋であった名残なのです。

しかし、国鉄の大阪駅と難波、天王寺を結ぶには、堺筋を経由するのは、不便極まりない。

そこで、新たな交通機関として地下鉄を導入する際には、幅6mほどしかない御堂筋を拡張し、その地下に走らせることにしたのです。

大阪駅に降り立った旅客に、大阪のメインストリートを見せて、大大阪の威容を感じさせ、その地下を走る地下鉄で大阪市の中心部へと運ぼうと計画したわけです。


しかし、ここで小林一三が口をはさみます。
「大阪市のように、氾濫原の軟弱地盤に地下鉄を作るのは、非常に困難が生じる。ここは高架鉄道にして、その両脇に道路を建設するべきである。」
確かに、小林の主張には一考の価値はありますが、都市景観から見ると問題があるのは歴然。

小林にすれば、アメリカのシカゴの高架鉄道を想定し、将来的に市電も高架鉄道にすればよいと考えたのだと思います。

同時に、地下鉄=第三軌条の概念があった当時、地下鉄が出来てしまうと、自社(阪急)をはじめ、私鉄電車の大阪市内への乗り入れができなくなってしまうとの懸念もあったと思われます。


しかし、都市防災として、軍部の意見を味方につけた関は、地下鉄方式に決定、御堂筋の拡張、地下鉄工事が開始されます。



同時期、東名阪では、多くの鉄道事業免許の申請が行われます。
それに対抗する形で、大阪市はいまだ開業していない地下鉄の新規路線構想を次々に打ち出します。

東西方向に現在の中央線構想を出し、森ノ宮から奈良を目指した東大阪電鉄などをけん制します。
東大阪電鉄は、すでにターミナル用地として森ノ宮に土地の払い下げを受けていたのですが、最終的に自らの営業地域防衛をするために、近鉄が東大阪電鉄を買い取ります。
これが、後のけいはんな線の元になり、中央線との乗り入れの根拠になることになります。

また、近鉄自身も防衛のために、新阪奈線計画を申請、免許を受け、梅田に進出する足掛かりを持ちます。

今の国道一号線の一部と阪奈道路がそれにあたり、城東区には、「大喜橋」という橋があります。
これは、元々「大軌橋」と呼ばれていたもので、近鉄が鉄道建設のために架橋したことに由来するためです。
(当時の近鉄は、大阪電気軌道と名乗っていた)


本来、大阪市の意見を聞いて、大阪市への乗り入れを認めてこなかった国が、なぜこうした鉄道計画を認めたのか?

それは、当時の田中義一内閣の鉄道大臣小川平吉が、後に五私鉄疑獄と呼ばれる騒動を起こし、内閣が倒れる際に、それらの申請全てに認可を与えたことにあります。

このため、大阪市は森ノ宮、今福への市電路線延長(今福延伸は戦後の話で、当時は免許申請のみ)を行い、組織防衛を行い、最終的にこれらの路線計画をつぶすことになります。

そうした中で実際に建設されたのは、新京阪と阪和電鉄(現在の阪和線)だけが実現したともいえます。


こうしたことも背景にあり、大阪市はより頑なな市営モンロー主義に突き進んでいくのですが、小林はなんとかそれをこじ開けようとしたと思われます。

結局、戦前に計画された地下鉄計画において、淀川を渡り榎坂村まで延伸する路線(この計画は、国鉄の弾丸列車計画に接続するための物)においては、淀川を地上の架橋で渡るために高架構造にし、この高架区間においては1500V架線集電を用いるとの計画を、大阪市に飲ませたのです。

これによって、大阪市営地下鉄の第三軌条電圧は、当時としては珍しい750Vとなり、倍の電圧の1500Vとの電圧変換が容易な形になるのです。

事実、最初の地下鉄車両100形は、電圧変換が容易になるように制御器が設定され、主電動機のつなぎを変えるだけで対応できる構造になっていました。

しかし、結局はこの計画は日の目を見ることなく、民営化を迎えることになります。


大阪メトロについて その4  5.大阪市と東京都 に続きます。
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