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2019年12月11日14:25

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大阪メトロについて その2

3.市営モンロー主義誕生


前回、大阪の場合、東京と違って環状線の内側に歴史的経緯からターミナルが設置されているとの内容を書いたが、フォローの意味で、各ターミナルの設置年次をまとめてみました。

M18 南海(阪堺鉄道)開業 難波駅設置
M22 (初代)大阪鉄道開業 湊町駅設置
M28 浪花鉄道開業 片町駅設置
M28 城東線開業 現在の京橋駅付近、新今宮付近で、浪花鉄道、南海と立体交差をする。
M31 関西鉄道の旧浪花鉄道への乗り入れと、網島駅設置
M32 網島〜大阪乗り入れ却下
M33 大阪鉄道の関西鉄道へ合併
M39 鉄道国有化法成立、関西鉄道は国営に。
M43 京阪天満橋開業

こうして、大阪市の場合、東京都と違った、市街地形成が行われていくことになりました。


ちなみに、すでに完成していた城東線の内側に、網島駅と天満橋駅が設置されることになるのですが、すでに完成していた土盛高架橋を改築して、その下を通過することになりました。

京阪の線路跡は、今も京橋駅北側に残っており、普通に人が通ることができます。
また、網島駅への線路跡は、環状線外回り電車に乗って京橋駅手前を注意してみていると、内回り線のごく一部が土盛ではなく橋梁構造になっている個所を確認できます。
(一般人の立ち入り不可)

また、新今宮駅の高架下通路(浮浪者の寝床になっていて、小便臭いことでも有名)が、線路跡になります。


歴史的には、その後、大正3年に近鉄(当時は大阪電気軌道)が、同じく環状線の内側に上本町駅を設置するのですが、こちらは、時系列の関係から、近鉄側が環状線の上を通る土盛高架橋になっています。


しかし、歴史的に古い南海はまだしも、なぜ京阪の天満橋乗り入れ、近鉄の上本町乗り入れが認められたのか?

しかも、やや中途半端な位置にもかかわらず。

それこそ、「市営モンロー主義」によるものであるのです。


その前兆は、上記の年表にも表れています。

関西鉄道が、網島から梅田への延伸を目指した際に、大阪鉄道との二重投資になるために却下。
しかし、大阪市は、これに危機感を抱いたのです。

明治7年に大阪駅が設置されて以来、大阪市の市域は一気に拡張を始めました。
曽根崎付近までだった市街地は、一気に大阪駅近辺まで広がり、南側は難波駅まで広がっていきます。

これに従って、新興の歓楽街が広がり始め、難波新地、曽根崎新地と呼ばれるようになります。
(曽根崎新地は、現在もキタ新地として残っている)
それまでの旧市街地は、豊臣時代、江戸時代を通じて見事な碁盤目状の都市であったのだが、一気に広がった市街地は、それらに倣わない無秩序ぶりでした。

これは、今も碁盤目状に東西南北がはっきりしていた土佐堀以南に対して、その北側はそうした法則に倣わない街路が存在することからもわかります。

急速に広がった市街地や、古くからの市街地に鉄道が乗り入れてターミナルが設置されると、無秩序に拍車がかかることになります。

これは、都市の発展にとって不都合この上ないことになり、行政による都市計画が成立しなくなるからです。

また、明治18年に淀川大水害が発生し、大阪の都市機能が不全状態に陥ってしまい、新淀川掘削と河川改修を伴った都市計画は、まさに待ったなしになっていたのです。

既に、難波周辺などでは手遅れ状態であり、「被害」を最小限にとどめたい。

そこで大阪市は、明治36年に花園橋(現九条新道)〜築港桟橋の間で開業した大阪市電を、大阪市の都市交通の中心に据えることになり、無秩序な鉄道の市街地乗り入れを禁止する政策を用い始ました。

手始めに、同年、市会で「市街鉄道に対する方針確定の件」を議決。市内交通機関市営主義が確定します。

これによって、高麗橋乗り入れを目指していた京阪は、天満橋までのターミナルが後退することになり、明治43年に開業。

同時期、同じく高麗橋を目指していた阪神が、出入橋(今のハイアットリージェンシーホテル付近)をターミナルとして明治38年に開業。

こちらも、非常に中途半端な位置であり、他の鉄道との乗り換えにも不便でした。

京阪の天満橋は、今の大阪マーチャンダイズマートビルの位置に設置されたのですが、開業当時は、淀川(大川)と寝屋川にはさまれた非常に狭い駅でした。
(後に寝屋川の付け替えによって拡張)

なぜ、両社とも、不便な位置に甘んじたのか?
それは、大阪市が市内中心部へのターミナル設置を断念する代わりに、建設が進められていた市電に乗り入れを許可することで代替することを約束したために、暫定的に設けられたターミナルでした。

しかし、大阪市は、第二期開業路線である南北線が開業しても、阪神の乗り入れを認めないどころか、第三期路線である梅田〜天満橋線への京阪の乗り入れの約束も反故にしたのです。


逆に、天王寺駅周辺では、市電唯一の相互乗り入れ実績となった、南海上町線との乗り入れが、明治44年に大手前上本町線との間で実施され、上町線の電車が天満橋まで乗り入れました。

しかし、翌年の市電運賃均一化を理由に乗り入れが中止されたうえに、上町線の路線であった天王寺西門前〜天王寺駅前を市電が買収し、上町線の位置が、今の近鉄阿部野橋横まで後退することになります。

こうして時系列を考えると、唯一の乗り入れ実績ともいえる上町線との相互乗り入れも、天王寺駅前への乗り入れのために、上町線を吸収しようと画策した結果ともいえるかもわかりません。



約束を反故にされ、路線を奪われ、辺鄙なところにターミナルを設けるしかなかった私鉄にすれば、大阪市の施策は我慢のならないものだったでしょう。

しかし、当時の大阪市の状況を考えれば、大規模な都市再開発と区画整理が必要な状況であり、大阪市に大きな権限と独占的地位を与えることこそが必要とされていたことは間違いではなかったと思います。

結果的に、市電が通ることによって道路が拡張され、木造の橋が立派な鉄橋に架け替えられたりしたことを考えると、大阪市の発展のためには必要な施策であったことは間違いではないと思います。



京阪が当時中途半端な位置の天満橋までに甘んじたのも、市電に接続するためであり、近鉄が上本町に乗り入れたのも、市電に接続するためであったのです。

また、近鉄開業当時は、そのまま大阪市電に乗り入れて、賑橋(難波)に乗り入れる計画だったので、千日前線と正対する位置(今の千日前通り上本町六丁目交差点)に設けられていたのです。

具体的な乗り入れ計画はなかったものの、路面で梅田に乗り入れた阪急(箕面有馬)も合わせ、これらの鉄道が国際標準軌で建設され、路面電車規格である軌道法で作られた背景には、大阪市電への乗り入れ計画も背景にあったと言えます。
(阪急の路面電車区間は、昭和に入っても北野線として存続していた)


しかし、完全な路面電車である上町線との乗り入れ以外は行われず、郊外電車との相互乗り入れが実現しなかったことは、一部区間とはいえ乗り入れ運転が行われた東京市(京浜、京王の間で行われた)の事例とは異なっており、市営モンロー主義としては、大阪市の方がより顕著であったともいえ、市営モンロー主義=大阪市との図式が、後々まで続いて行くきっかけになったともいえます。


その3 大阪メトロについて 4.市営モンロー主義の暴走 に続く
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