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2019年12月11日12:24

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大阪メトロにはついて その1

先週、Twitter上で、維新支持者と反維新の間で、大阪メトロの再公営化について議論されていましたが、最終的には全く歩み寄ることなく、単なる罵り合いになってしまいました。

国鉄民営化をリアルタイムで見てきたものからすると、維新を支持するほうも視点的に欠如しているところがあり、反維新の意見は、一定の理解はできるものの、公共交通の維持という視点であまりにも近視眼的な意見しか出てきていませんでした。


そこで、国鉄民営化の手法と問題点を根拠にし、大阪メトロ特有の問題点を合わせて考察したいと思います。


1.そもそもの大阪メトロとは?

こうしたことを考察するには、まずは歴史的経緯から知らなければならないでしょう。

大阪メトロとは、正式名称を大阪高速電気軌道と言います。
この社名を聞いた時に、「あれ?」と思われる方もいらっしゃると思います。

普通、大阪高速電気「鉄道」となるところが、「軌道」になっている点です。
これは、前身である大阪市交通局による地下鉄建設の経緯に遡る必要があります。


大阪市交通局(当時は電気局)による地下鉄建設にあたり、すでに経営されていた路面電車(市電)の地下化による高速化であるとの主張を行ったことによります。

地上を走る鉄道では、当時、京阪、阪神、近鉄の一部が、路面電車として開業しながら専用の線路を走行する形態をとって、実質的に高速鉄道として機能していました。
(当時の京阪などには、路面電車としての区間が残っていた)
しかし、法律上は「軌道」であり、路面電車として扱われていました。

この「矛盾」を利用して、
「公共の道路の地下を占有して走る地下鉄は、鉄道ではなく軌道がふさわしい」
として、大阪市は軌道法による建設を行ったのです。

当時、「鉄道」の管轄は鉄道省、「軌道」の管轄は内務省にあり、許認可や権限が異なっているうえに、公的な位置付けも異なっており、道路の占有として費用を削減できる軌道法による建設をもくろんだわけです。

後に、鉄道省の運輸省への改組、内務省解体に伴い権限を建設省に委譲したことにより、所轄官庁は変わったものの、管轄が普通の鉄道と違うという実態は変わりませんでした。
(これは、後の省庁統合により国土交通省誕生まで続くが、今も部局が違う)

また、戦前は、路面電車のための電力を自ら生み出していた関係から、電気局として発電、配電事業も行っていたのですが、戦時体制による電力事業の統合に伴って、電力事業は大阪市から切り離されてしまいます。

これによって大阪市交通局という組織が正式に発足することになるのですが、その名残は最近まで残っていました。

まず、地下鉄車両の側面車端部付近の下部に、車両の形式や諸元などが記載された箇所があったのですが、ここに付けられたマークは、おなじみの○(丸)にコの字のマークではなく、大阪市の市章である「みおつくし」の下に「電」の文字が図案化された、大阪市電気局時代のものが残っていました。
(大阪市電には、廃止までこのマークが使われてきた)

また、今は中之島にある大阪市立科学館は、長らく四ツ橋交差点の北東角に有った大阪市立電気科学館」が移転して出来たもの。

この電気科学館は、関西電力、大阪市とともに、大阪市交通局が運営にかかわっていました。
電気科学館という名前ながら、展示物には地下鉄500形の模型が展示され、電車が走る仕組みの説明や、信号システムの説明がされていました。

電気科学館の設立当時は、大阪市電気局が市電の収入から支出して作られたものであり、科学館として移転するまでは、その名残が強く残っていたのです。


このように、大阪市交通局は、大阪市に住む住民にとって、単なる公共交通機関としてだけでなく、生活に深くかかわる部局だったのです。



2.大阪市内交通の独占の歴史

電力の寡占、法的な隙間を付くような設置など、今から考えれば「?」ってところがあるものの、素早い地下鉄網の整備、同時に行う道路整備と言った面では、有効に働いた側面があり、今の視点からそれを否定するのは、禁物ともいえます。

しかし、もう一方で、市内交通の独占という問題も抱えた形になります。


大阪市の市街地形成の歴史的経緯から、東京都と比較すると若干ぬ矛盾があるのですが、東京では私鉄のターミナル駅が、総じて山手線の駅に隣接して設けられています。

しかし、大阪の場合、大阪環状線の駅にターミナルが存在するのは、梅田界隈と天王寺界隈だけになります。

これは、大阪市の市街地形成が、曽根崎付近以南、道頓堀以北、上町台地以西になっていたために、そこに隣接して乗り入れるために、私鉄の駅が当時の市街地の外延部に隣接して設けられたことによります。

これは、大阪環状線の元になった城東線(今の大阪環状線東側 大阪〜京橋〜天王寺)が、関西鉄道の大阪線として建設されたのが、東京の山手線(建設当時は日本鉄道品川線)よりも遅く、それまでに私鉄の建設申請が行われていたことにもよります。

したがって、建設当時の大阪市街地の外延部に建設された城東線に対して、古い市街地の外延部に接続するように作られた私鉄ターミナルの許認可や建設が早かったことにもよります。
今も続く関西の私鉄大国ぶりが、こうした歴史的経緯からもわかります。

今はJR関西本線(大和路線)になっている関西鉄道も、買収前の(初代)大阪鉄道がターミナル駅を設置する際に、今の大阪市中央区日本橋(旧南区御蔵跡)付近にターミナルを設けようとしたこともありました(この付近には、当時高津入掘という運河があり、水運に利用しようとしていた)。

しかし、狭い高津入堀よりも川幅が広く、船着き場も整備されており、当時の市街地の外延部に位置していた湊町(現在のJR難波)にターミナルを定めたのです。

大阪進出のために大阪鉄道を買収しようと試みていた関西鉄道(当時は、草津線〜柘植〜関西本線〜名古屋の路線で、柘植から奈良までの延伸を行ったばかり)は、大阪鉄道と近接する奈良のターミナルとして大仏駅を設置するとともに、独自の大阪乗り入れ路線として、当時片町〜四条畷間を運転していた浪花鉄道を系列下に収め、木津まで延伸を行います。

そして、大仏へ向かっている路線から分岐する形で、浪花鉄道に直結させて大阪への乗り入れを開始します。


この時の時点で、すでに今の環状線の内側に、湊町、片町と、ターミナル駅が存在することになります。

さらに関西鉄道は、寝屋川と野田川にはさまれた手狭な片町駅以外にターミナル駅を求めて、鴫野から分岐する形で京橋駅の北西に位置する網島に駅を建設します。
そして、片町駅は貨物駅に格下げになります。

直後に大阪鉄道の買収に成功した関西鉄道は、大仏駅を放棄、木津駅手前で分岐して合流する線路を建設して、湊町乗り入れを開始します。
結果、網島駅は一部の名古屋行きを除き、ローカルターミナルに転落、大阪鉄道が国鉄連絡線として建設した大阪線(後の城東線)と接続して大阪駅へと短絡する路線として、桜の宮への延伸が行われます。

これらの跡地は、最近まで見ることが出来ました。

こうした歴史的経緯により、城東線は当初から高架による立体交差構造になっており、ほとんど地上を走行している山手線との違いがよくわかります。


また、現存私鉄最古の歴史を誇る南海電鉄も、早い段階で難波に乗り入れており、現在の新今宮付近が、関西線が土盛高架構造(一部を残して、後に普通の高架橋構造になっている)になっているのも、こうした歴史的経緯によるものです。

こうして、京阪天満橋、片町、網島、湊町、難波が、東京とは違い、環状線の内側にターミナルとして存在する形が形成されたのです。

しかし、これらのターミナルの立地も、当時はあくまで市街地の外延部であり、市内中心部への乗り入れは出来ませんでした。

これは、東京都においても同様であり、私鉄である名古屋電気鉄道を買収して市電にして、郊外路線のみ私鉄として存続させた歴史的経緯の有る名古屋とは、歴史的経緯が異なることになります。


では、なぜ東京と大阪で、市街地中心部への乗り入れができなかったのか?

それが、後に続く大問題の根本になるものであり、当時としては政策的に評価できるものの、禍根を残し、大阪衰退の一因にもなった市営モンロー主義の始まりであり、当時は大阪も東京も同じ政策と問題を抱えていたのです。


次のその2 3.モンロー主義誕生に続きます。
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