世間では介護は手助けの類と考えている人がいまだに多い。又、保育仕事も。それらの賃金がまだ低い原因の一つにもなっている。 昔=40年前の僕もその区別が付かなかった。そのような身障者は世田谷にも当時は多かった。何もヘルパー作られなくても、
世間では介護は手助けの類と考えている人がいまだに多い。又、保育仕事も。それらの賃金がまだ低い原因の一つにもなっている。 昔=40年前の僕もその区別が付かなかった。そのような身障者は世田谷にも当時は多かった。何もヘルパー作られなくても、
容疑者は噂ではメンタルクリニックにも通い、(恐らくは、高校卒業後)統合失調症の傾向も持っていたとか。噂が本当ならば、尚更、難しいわけです。 とは言え、僕は強く述べますが、統合失調症も医学的なケアと人々の理解さえあれば、隔離せずに、町の
北海道に住む友人からの続報では、容疑者は「高校時代は野球をして、新聞にも載った。野球をするから、人に頼るような奴にはならないでいる」とか言っていたそうです。 高校卒業後は調理師学校に通い、父親が自宅を食べ物屋に改造して、店を出しました
今の日本・韓国・中国は梅雨という名の雨期である。日本語では「tsuyu」と読む。この時期に雨が以上の地帯では多く降るから、水を成長に多く必要としている稲が太古から育てられてきたわけである。 その梅雨の雨は主に南方からの大量の熱い水蒸気
北海道に住む一友人からの話では、容疑者は難聴を持った人だそうです。つまり、聴覚障碍者で、新聞配達しか仕事もなく、将来の生き方について困っていた末の自暴自棄の犯行だとか。 それについて僕はコメントする資格もないと思いますが、余り報道
「お金のいらない国(長嶋龍人著・地球村)」という本がある。友人から勧められて買ったものです。数巻あり、男性の主人公がたまたまそのような国の町に行き、その町の一人と会話をしたり、見学する設定です。僕がその内容を詳しく述べる事はできません
僕のマイミクにはそのような経験をお持ちの人が多い。それゆえ、僕も自動的に離婚の問題を考えさせられる。とは言え、離婚自体は大きな問題なので、この僕が述べられる問題ではない。でも、そのような経験者の問題の一つには、その心のしこりがある事は僕
考えてみれば、そのような人たちは学校には行かせてもらえず、教育も、リハビリも全く受けておらず、簡単な字の読み書きもできない人たちである。親が健康だった時は家にだけいて、外出もできず、親が倒れたら、多摩更生園に入所という経路をたどった。
僕の母校の光明養護学校・高等部では、1970年頃から進路指導の一環として、多摩更生園という身障者コロニー見学を3年に一度していた。高等部を卒業するまで、一度は見学して知る事になる。まずは、僕の古い記憶を呼び起こして、その様子を説明したい
誰でもそうかもしれないが、僕のその変化もどんな旧友たちにも判り難い。戸惑った中学時代の同級生すらいたわけである。ましてや、マイミクの人たちにはもっと知らせる必要もあると思っている。将来、妻が現れたら、やはり、話したいし。 人間関係主義
誰でも発想や考え方は変化している。変化しない人はいないだろう。僕も1970年代後半、80年代後半、90年以降と考え方や行動が変化している。 70年代後半の僕は友情などの人間関係を重んじる発想だったようだ。だから、盛んに近所の身障者
アクセス障害らしく、昨日はほとんどパソコン出来なかった。最近は多く、変だと。 世田谷地区ですが、本当にそうなのですか。
70年代は障碍者関係も世間に知られていなかったから、例えば、歩けて、手も動く軽度身障者を初めて見た人もショックに思ったわけです。ベテランの教師など、かなり社会経験を積んだ方でもそうでした。 ならば、秋田から出て、大学に入った直後に極
家事関係です。月曜日はこれまで妹が来て、買い物や食事作りをしてもらっていました。その妹が仕事の関係で、来れなくなり、代わって、昼間の一時間、ヘルパーさんが来てもらい、主に買い物をしていただく事になった。大体、ヘルパーさんも食事作りは苦手
メール類は非常に便利で、判りやすいし、速く着く。それはFAXも同じである。メールやFAXがまだなかった時は通信手段は手紙と電話に限られていた。言うまでもないが、手紙はどんなに近くに出しても、最低一日はかかる。急な用事には間に合わなかった
ひたむきさ、純粋さが陰をひそめている人が多いからだと思われる。それは今回の北海道の例の親の「無責任さ」にも通じる問題でもある。その人だけでなく、今は確かに無責任な奴も多くなっていますからね。 それは友情にも通じる事かもしれませんが、人
今回の子供の行方不明事件が起きても、IT発達前ならば、地元の人たちしか関心を寄せませんでした。人々の関心や心配は地元や所属団体の中に限られていました。それが今は日本全部の人たちが心配するようにも。それだけ、人々の心は広くなったわけです。
日本におけるそれも表題の通りかもしれません。例えば、近代のヨーロッパやアメリカで、アフリカ系の人たちの人格を認めようとせず、それに経済問題も絡み、労働力搾取と黒人差別という、深刻な問題となりましたが、このように人格を認めないと、他の何か
本当に「相手の心を見ない」気風が日本にあるのならば、離婚とか、恋愛レスにもなるよ。昔のボランティア問題から僕は考えていったが、恋愛や結婚にも言えると。 また、心を見ないと、男女交際も、夫婦も楽しくないだろうからね。男女交際はセックスの遊戯
相手をよく見ないで関わる。恐らく、その場合、介護という労働行為に意識を集中させるわけだから、相手が身障者であろうが、高齢者であろうが、乳幼児を扱う感覚になるのだろうね。手話通訳の時の聴覚障碍者への対応も同じで。外国人とのやりとりにしても
そのように障碍者などを扱う人たちは、愛と甘やかしの区別が付いていないわけである。日本社会に深く見られる現象。 愛とは相手の事を客観的に思い、かつ、相手を深く大切に扱うこと。 甘やかしとは、自己本位で相手の事を見て、自己満足的に施すこ