「同期の桜」という日本の軍歌がある。日本軍用機のパイロット、神風特攻隊を桜になぞって歌ったのである。そのテレビ・ドラマが1967年に放送され、その歌が流行っていたので、小学6年だった僕は男子の有志たちと学校のクリスマス会で歌った思い出も
それは戦後の日本にも影響を与えているはずである。過去の影響を受けない「今」はあり得ないから。 例えば、日本国民の価値観が池田勇人首相が出現した1960年あたりから経済主義一辺倒になったのも、政治の事をよく考えず、無関心な人が多い
X君は自分が気に入った女性の肉体をいきなり求める面があった。やはり、それも脳の理性を司る所のマヒが原因だろうが。しかし、この場合は女性は百%断れるからまだ良いかもしれない。というのも、知的や精神障碍の中で、肉欲の代わりに、恋愛感情のまま
そこから「神風特攻隊」と「戦前の日本のハンセン氏病患者への強制隔離」を連想させられた。前者から話そう。 戦死、特に敵艦に体当たり攻撃をしての死を美化し、散りゆく桜の花になぞらえる。実際は美しくもなく、敵・味方の別なく、恐ろしい事だ
彼は感情と欲望のままにしか生きられないからである。彼はテンカンも持っていたが、それはこちら側でケアすれば処置できる。 例えば、お金を借りて欲望のまま使い、返さないなどのトラブルが多かったと聞いている。本当に考える事を知らず、ただ自分の感じ
永井荷風は自らの「断腸亭日記」で、早い時期から第二次世界大戦の日本の敗北を予測し、又、「日本軍の快進撃に酔いしれる日本民衆」を冷ややかに見ていた。終戦になり、今度は誰もが人が変わったように、平和主義になった事も皮肉に思われていたようであ
高島平子供会の良かった点は学生サポーターたちも余り指導みたいな事はせず、子供たちと一緒に楽しくやった点ではなかったか。メダカの学校の歌のように、「だれが生徒か先生か」でね。僕も童心に帰っていたから。 でも、子供会的なものにも色々ある
僕の通っていた光明養護学校は身体の不自由な子供ばかりだったが、それでも、小学の時は昼休みや放課後は校庭に出て、砂遊びをしたり、母親や介助員の助けで色々な遊びをしたわけである。とは言え、毎日雨の時期は外に行けない。そこで先生が色々工夫をてく
かなりの人は若い時は経験あるだろうが、異性に熱い恋愛感情を持つと、頭ごなしに好きになりますね。「あばたもエクボ」で、欠点さえも好きになる事も多い。相思相愛ならば、尚更感情が盛り上がる。その勢いで結婚した人たちも多いわけです。でも、一旦、
ここで林田博士の説明を少ししよう。林田聖樹。1908年長野市生まれ。奇しくも私と同郷である。若い時からキリスト教信仰を持ち、その愛に従い、医学の道を歩み、西洋医学を修め、特に戦後はまだ世間も目を向けなかった障碍児医学を次第に行なっていっ
彼はVYSになじめず、孤立もして、出ていった。それも当然だったかもしれない。僕の「盲学校には関心を持てなかった」から気が付いた事だが。 聴障者もそれ独特の世間の無関心や差別はある。K氏はそれを訴えていた。でも、VYSの各活動場、重い身
全生園内部の元患者同士のドロドロした強い葛藤と対立を描かないと、伊藤まつという人物も、僕などの外部者を求めた理由も浮かび上がってこないだろう。絵や若者に接した様子だけを描いても、上べだけの文しか書けないわけだ。 でも、僕にしろ、他の全
全生園内部の元患者同士のドロドロした強い葛藤と対立を描かないと、伊藤まつという人物も、僕などの外部者を求めた理由も浮かび上がってこないだろう。絵や若者に接した様子だけを描いても、上べだけの文しか書けないわけだ。 でも、僕にしろ、他の全
人間は目的のない行動はできない。全動物に言える事らしいが。 今、高島平子供会があれば、僕は子供たちの中に入っていくだろうか。遊びとして時々は行くが、社会活動としてはノーだと思う。子供たちに子供向け科学や随筆文は書き、その面での関わりは
僕と付き合わせていただいたS園の3人の園生。どれも個性的で、一人一人イメージが僕には違うが、結婚したい感情は非常に強かった。でも、実現しなかった。今までの僕は障碍者差別と、彼らの置かれた介護面などの状況のせいだとばかり思っていた。それら
自然災害も数多いが、地震ほど、死を連想するものはない。だから、地震が起きると怖がるし、こっちには起きなくても、起きた地方の人たちの恐ろしさも判るわけだ。
僕はいつからしら、仲良し関係に違和感を持つようになった。目を外に向けると、旧友たちの中にも多くいた。僕よりも厳しく否定的な見方をする人も。なるほどねえ。理由が見つかった。S園だった。 僕はそこで職員たちと、穏健な発想を持つ一園生から「
欲望のコントロールを無視して、共産ユートピア社会を実現しようとすると、強力な権力の拘束力を使わない限りは不可能かもしれない。それでポル・ポトの問題も理解できるわけです。
昨日書いた「歴史的な見方...」の後半に書いた、「人々は歴史を作るために生きている」はある意味で真理。それは誰も尊重すべきだと思います。 でも、マルクス自身も、エゴや我欲、我執みたいな事は一言も述べていなかった。「共産社会ユートピ
1983年。7人の身障運動家がS園の園生虐待の件について怒り、雪のちらつく日に抗議の座り込みなどの実力行使。その効果についてはいまだに検証できない。だが、7人のその後はいずれも悲惨な状態。特に、リーダー格の男性は以上をきっかけに体を壊し
ある人の話によると、「ズートピア」に出てくる肉食動物は(アメリカ社会では多数派の)クリスチャン、草食動物はイスラム教徒だそうです。映画監督はそのように意図したと。でも、元々宗教対立が少ない日本では、体力がある人とない人に見る人も多いのではな
去年の今ごろ、文芸誌の会で知り合い、いきなり(女子中学生が書くような)恋文を下さった人で、その後も時々恋文を下さいましたが、最近は途絶えています。 そうだと思います。僕は予想していました。どんな人でも、恋愛感情は続かないからです。それ
ディズニー・アニメ映画「ズートピア」を見ました。草食動物も、肉食動物も助け合って共に生きるという、動物の理想郷みたいな所の映画です。科学的にはあり得ませんが、強い人も、病弱な人も共に生きる世界を作りたいという、映画の作家や監督の強い希望と祈
S園は1961年に創立されました。小説書きの参考のため、「ねむの木学園」とどちらが古いのだろうと思い、ねむの木を検索した所、「1968年創立。日本初の重症心身障害児施設」と書かれてあった。事実に反します。 S園が日本最古の重度心身障碍
以下に補足するとして、僕は一人では書いていません。「マー君」含め、4人の園生は勿論、その他の園生、職員、そこに同行した人、更には、読者と「皆で一緒に作る」書き方をしているわけです。そこを見た事もない人たち含めて。小説名の林田博士は最後には「
今、書き進めている事は1960年くらいの林田博士の事です。かなり先になりますが、「私」は1977年に再登場します。福祉団体の一員として、小説上の名前のシマハタを訪問したから。そこで「私」は色々葛藤もありましたが、それは少しだけしか記しませ
フェイスブックで精神障碍者隔離反対の記事を見掛けたため、シェアしました。そこから高大生と言う会で一緒だった例のX君をまた思い出して、考えてみました。 その会では、彼を友人と見て関わりましたが、最後は関わり切れず、追い出してしまった。で
77、8年のVYSで活動した車いすに乗った人は僕だけだったが、もし、5人くらいいたら、どうなったかね。各場で混乱が起きたと。名前を覚えられなくて。何故なら、どんな人でも、車いすに乗った人たちは同じに見るという心理があるから。早い話、僕に