80年代に行った教会関係。会報文、手記、会話などで伊藤まつさんの話を盛んにした。信徒たちは聞いてくれたが、伊藤まつさんから飛躍して「ハンセン氏病の人たちは素晴らしい。頑張り屋で優しく、神に選ばれている」という反応。中学生から高齢者まで。
今日も漢詩講座を聞きました。その中から一つ。時期外れですが、色のコントラストが鮮やかなものを。南宋・趙師秀の「客と約するも来たらず」です。尚、色のコントラストを表すため、漢文書きでは以下の通りにしました。 約客不来 黄梅時節家家
はやぶさロケットと宇宙 2019年3月 はやぶさロケットがリュウグウという小惑星(しょう・わくせい)に着陸(ちゃくりく)しましたね。そのようすをぼくもテレビて
結論から言えば、できないと今の僕は思う。40年前に、児童・障碍者・ハンセン氏病関係の各福祉の事を論文化して、世間に伝えようとした人たちと接してきたが、彼らも中途で投げ出した。また、僕自身もS園の事が気になり、数年前にはブログを使い、レポ
昨日の午後から良くなり、ひざ立ちが平常通りにできるようになりました。そうしても痛くありません。ただし、再び痛めることがないように、完全に治ったと自分で思う時まではひざ立ち歩行はしないわけです。
19日、左ひざ下の所を打撲したもので。当日は常に痛かったですが、それ以降は痛みは退いています。でも、その後遺症が残っており、ひざ立ちすると丁度体重が掛かるような所なので。 座っていざって、移動しています。ヘルパーさんのいる時は、体を支
今日もラジオの漢詩講座を聞きました。その一つ。南宋の徐照の「舟上」。 舟上 徐照 小船停槳遂湖還/四五人家住一湾/貪看曉光侵月色/不知雲気失前山 小船(しょうせん)、槳(しょ
信仰について更に述べる必要があるのは死の問題。誰も死後の事は判らない。でも、例えば、キリスト教では、イエスの死後の復活を信ずると、歴史の果ての時にイエスの愛の力により、心身共に復活すると言われている。イスラムでも、アラーの定めた戒律を実
虚構の事を述べたため、諸々の信仰の問題も述べざるを得なくなった。 例えば、キリスト教では「イエスが磔で殺された三日後に復活した」とあるし、イスラムでは「酒はアラーが禁止した。豚肉を食べる事もアラーが禁止した」などとある。仏教の浄土系の
信仰について一つ大事な事を述べないといけない。例えば、キリスト教における「キリストの復活」、浄土系の「極楽往生」、イスラムの「アラーが定めた戒律」は無神論者から見れば虚構に見えるが、それを「現実」と堅く信じて、現実を生きるのが肝要な点で
僕自身の事を書きます。そう言えば、無論、ニュースで早くからパソコンのゲームの事を知っていましたが、全く関心が持てず、した事もありません。やりたい気持ちも全然起きない。 「どうせ虚構の空間だ。そのようなものをしても始まらない」という気持
放送大学・21世紀メディア論の第5回目の講義番組で、水越伸教授が、メディアと関係が深い(日本の)世相を大まかに説明。その中で「日本では、1970年までは若者を中心に理想を追求する人たちが多く、世相にも反映されていた。でも、その後、阪神大
理想主義とアナーキーの違いを僕なりに述べます。 理想主義の根は万人の幸福を願う気持ちです。特に、時の弱者の生活向上などを。理想主義からその論文が書けるようになる理想論者になるようにするには、文筆力の他、徹底した歴史凝視が必要ですね。そ
今日は、南宋時代の方岳の「春思・二首」の其二です。 春風多可太忙生/長共花辺柳外行/与燕作泥蜂醸蜜/纔吹小雨又須晴 春風(しゅんぷう)、可とすること多くして、太(はなはだ)忙生し/長(つね)に共に、花辺(かへん)、柳外(りゅうがい)
「恋愛感情」はありふれた言葉だが、結婚感情なる言葉は聞いた事が読者の皆様もないだろう。僕が勝手に作った言葉である。今の日本でも、大体が恋愛感情から結婚する。しかし、恋人時代の熱い感情的な関係のまま結婚後もそうして、夫婦の自覚もなく、すれ
この件は40年以上昔で、しかも、2つの出来事を同時並行的に書かなければならないから、筆記が難しいが、例の実録小説には記す予定はないものの、ブログという形で述べます。 まず、僕がS園の身障室に行き始めたのは1977年6月でした。所属して
若い時に僕は多くの会を転々したが、どの会も仲間内でさえも判らないような難しい言葉ばかり使って、結果的にはムードだけになっていた様子をたくさん見てきたからである。例えば、「地域コミニティ作り」とか「社会変革」などである。思い出せない言葉も
東日本大震災記念日に合わせたものです。今も被災地では、多くの人たちが住まいなどで御不自由を強いられています。復旧はまだ遠いわけです。その一人のフェイスブックの被災地の友人の投稿からも、高齢者から小さい子供まで御苦労している事がひしひしと
僕がまだパソコンしなかった2002年ごろは、特に異性の人には連絡先を住所から聞き始め、それから電話、FAX、最後にメール・アドレスを聞いていく事が礼儀とされたようです。いきなり女性にFAX番号を聞いて、友人からからかわれた男性もいました。そ
40年来付き合い続けている元学生ボランティアの旧友で、その「意義」が自分でも判らず、悩み続けた人がいた。学生時代に行ったS園にしろ、主婦になってから個人的に関わった一障碍児にしろ、関わりながら「私は何故行くのか」と自問的な手紙を僕にも下
当時の僕は光明養護学校の高校2年生だった。その関係の所に、仏教系新興宗教会と思われるボランティアたちが団体で押し掛けて、「タクシーを借りたから、ドライブして上げる。ごちそうの昼食も出すから」と生徒、児童、父母たちに働きかけた事があった。
南宋・楼鑰(ろうやく)の「春雨(しゅんう)二首」の其二です。 春雨・其二 漫漫平湖接遠天/濛濛細雨湿軽煙/野橋横著草深外/何処渡頭人上船 漫漫(まんまん)たる平湖、遠天に接し/濛濛(もうもう)たる細雨、軽煙、湿(うるお)う/ 野橋
思ったのだが、どんな友人・恋人・夫婦関係にも「歴史的必然性・因縁」が働いているのかもしれない。僕のS園の件だけでなく。誰でも経験あると思うが、どんな人に対しても、いくら力んでも友人や恋人になれるものではないからね。精神力みたいなものでは、縁
1973年ごろ、「かぎっ子」など、高島平の子供たちを取り巻く状況は厳しく、社会矛盾が噴出していた。法整備はなかったし。だから、当時の東京VYSの人たちは引き寄せらるようにそこに行ったと。77年のS園に対しても同様。恐らくは同時期の盲学校
身障室にも個室がなく、相撲部屋のように、雑居状態だったからもあったと思う。それに後年、色々と創立期から調べ、歴史的な流れも掴み、小説として書けるようになったわけである。 同じ時期、僕も行ったハンセン氏病療養所の多摩全生園は当時はすで
最近気が付いたが、まず、身障者・ボランティアの別なく、S園に関心を向ける者同士は気持ちがお互いに通じるし、話も噛み合う。例え、そこに行った事がない人たちに対しても、わずかでも関心を持って下さる方とは同様である。その事について、初めは仲間
確かに、「恋愛と結婚」は誰でも大きいからね。40年前の僕は、特に脳性まひ者だけがそれらに縁が遠いと思っていたから。また、実際、結婚しても生活できるのか?という疑問もあったし。当時はまだ日本には障害基礎年金もなかったわけだし、ヘルパーもな
どちらも「封建制発想」で割り切れます。レイプした牧師は二人輩出。一人は逮捕されました。 封建社会の人たちの生活も階層により違いましたが、庶民は恋愛を自由にしていましたね。でも、どこの国でも、上流階級は恋愛はタブーで禁止され、イエ存続の
特に1月は左ひざと腰が痛くなり、室内移動(ひざ立ち歩き)の時も痛みを感じ、動きにくくなった。そのような時は僕は寝たきりの脳性まひの体を持っていた野口栄一君の事を必ず思い出す。今回もそうだった。寝たきりの状態でよく前向きに生きて、声量も弱