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日記一覧

  唯脳主義のルーツをたどると、ルネ・デカルト(1596年から1650年)にさかのぼるからです。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」というラテン語を述べましたね。日本語には「我、思う故に我有り」と翻訳されていますが、思うの所はかなり「考える」

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天文台見学
2019年10月31日16:45

  今日午後、三鷹市にある天文台を見学しました。とは言え、その大半の個所は見学禁止になっており、又、見た事は全部僕の知っている事ですが、最新の銀河団の写真が見られて、良かった。後日、写真を公開します。そこは森でもありますが、太い木々が先日の

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天文台見学
2019年10月31日16:45

  今日午後、三鷹市にある天文台を見学しました。とは言え、その大半の個所は見学禁止になっており、又、見た事は全部僕の知っている事ですが、最新の銀河団の写真が見られて、良かった。後日、写真を公開します。そこは森でもありますが、太い木々が先日の

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唯脳主義からの卒業
2019年10月30日11:22

「日本の歴史・上巻(網野善彦著・岩波新書)」の「縄文時代の身障者・病人介護」の所をこの秋に読み返し、遺伝子力の働き・連帯だと推察し、それで僕の世界観は変わったようだ。今までの唯脳主義から卒業できた。唯脳主義を少し振り返りたい。  確かに

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70年代後半、短期間ながらも僕も入り、色々な活動場を持っていた福祉団体。例えば、そこに住んでいないのに、高島平団地の一角に行き、子供会を毎週したり、島田療育園や、下町の盲学校に行ったり、多磨全生園に行き、元患者の伊藤まつさんと親しくもし

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実録小説第9章の説明
2019年10月28日13:51

うずもれた感はあるとは言え、水上勉氏も登場させなければならないと思い、「小町天使」の章の前にさかのぼり、書いてみた。書いている内に悩みが生じた。最後の方に書いた時の池田勇人首相への手紙の内容である。その注釈の通り、そのまま載せれば盗作に

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   シマハタの状況はテレビ・ラジオ・新聞を通して日本中に広まり、それに深く注目した人の一人に、作家の水上勉氏がいた。自分の次女が身障児である事もあり、シマハタに注目した。   「障碍児たちが多く療育されているシマハタはどのような所だろうか

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ログイン
2019年10月26日17:50

 これはミクシーだけの文。春以来、特に最近はフェイスブックへのログインが激増。小説書きの為、アメーバは減っていないが、他のサイトへのログインは減っている。  春にフェイスブックで一人の独身女性から、島田の話をきっかけに愛され、最近は僕の方も

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友人とは何ぞや
2019年10月26日11:47

僕が島田療育園から退いて少しした時の、入っていた福祉会。部外者の、親が倒れて生活介護を求めてS氏が会に介護者を頼みこむ。僕と、弁護士志望の法学部学生の一人は、「氏を支援しよう」と策を考え始めたが、その他の会員は動く気配はなし。会の大勢は

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 聴障を持つK氏の島田への反応が他の人たちと大きく違っていたので、非常に時間を掛けて理由を考えていった結果、恐らくは聴障者たちも気が付いていないだろう、問題に気が付いたわけです。「視覚だけの認知」ならば、本当に物理的な理解しかできないと

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 一緒に島田に行った人の中に、先天性聴障を持つK氏がいた。彼は頭が良く、1977年当時は大学生。今でもそうかもしれないが、当時は聴障を持つ大学生は稀だった。手の障碍を持つ僕は手話ができないので、氏との直接の意志疎通は難しかったが、人伝手

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先ほどは書き忘れましたが、「顔の差別」の問題は1990年以降の子供向け文に時々書いています。ハンセン氏病差別の原因は諸説があり、対立していますし、子供たちにいきなりハンセン氏病と言っても判らないでしょうから、宇宙人の事から「顔や姿形で

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あえて、表題の後ろから書きます。その前に、伊藤まつさんとは、1908年東京都八王子出身のハンセン氏病元患者です。1977年、某福祉会で僕も行った東村山市の多磨全生園で出会い、1985年に昇天するまで僕も時々訪問させてもらっていた方です

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「70年代の学校を巡る抗争と...」のブログで書いた通り、日本の地方都市のかなりの地域コミニティは明治期以降の公立学校と国家神道を通した国家共同体作りの国策で人為的に作られた面があるはずだと。その他、当然ながら、江戸時代以前の地域共同

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 小説を書くため、花田春兆氏の考え方を見る材料になると見て、1982年に刊行された「ときには逆考してみても(花田春兆著・ポプラ社)」を読んでいる。その中で一番花田氏が訴えているのが昔からある障碍児殺しの件だが、次は70年代に全国的に繰り

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 佐久のみなさんへ. 台風19号の大雨の洪水で、佐久の人たちも大変ですね。この手紙がつくころも、川の近くはあぶないままでしょうから、みなさんも気を付けて下さい。 東京はものすごい風が吹きました。ぼくは世田谷区に住んでいますが、12日の夜の9

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 数ヶ月前に例の小説で書いた通り、島田療育園では、小林博士以下のアガペーと親子愛の混同がひどく、それが成人後の園生たちへの対応の問題に深い影を落としていくわけである。では、この僕は、どうなのかと言えば、同様に若い時は全ての種類の愛を混同

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共生根拠を求めて
2019年10月17日14:17

思えば、若い時からの僕も、某福祉会や身障会の多くの旧友たちも、共生根拠を求めてキャンプや子供会をしたり、島田療育園や(ハンセン氏病関係の)多磨全生園に行ったり、議論を重ねたわけである。答えが出ないから、みなジレた。中には、早くに諦め、自

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物証や記録がないから断言はできないが、本当に遺伝子力がフルに発揮されていたのならば、非常に大らかな恋愛関係や、結婚形態だったと推察できるわけです。異性への個人の所有の観念がなかっただろう事も判るので、感情のもつれからの地獄もない。身体

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共生根拠が当時はなかった事だろう。僕も遺伝子の事を考えている内に、やっと気が付いたが。確かに、70年代、僕が出会った多くの身障運動家やボランティアたちは、ひたむきに何かを求めて社会改革の意欲にも燃えていたが、「個性の違いはあるが、みな同

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佐久市に児童関係の旧友がいて、そこに子供向け文を書き送っている。TVで佐久市も今回の台風でひどい被害を受けたから、昨日は臨時に書いた。近く公開もする。 何のために他人の多くの子供たちに書くのか。僕が書く事が好きだからの他、99%以上同じ遺伝

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台風19号から想う
2019年10月15日14:28

台風19号により、死亡された方たちのご冥福をお祈りします。  8日(火曜)の天気図や衛星画像をテレビで見て、勢力とコースは日本にとって非常に危険なものになると僕も思いました。イヤな予測が当たったものです。10日などは最大風速が55メート

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フェイスブック投稿から
2019年10月14日17:35

佐久の子供たちに、お見舞いを兼ねたものを臨時に書きました。「声を掛ける大切さ」も併せて書いた。今回の台風で僕が学んだものです。学ぶ種はいくらでもありますね。今週末に公開しますが、その時も各地の洪水はまだ引かないでしょう。こういうものです。

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旧約聖書の「エデンの園」、シュメール神話、インド・ヨーロッパ・中国・朝鮮半島・日本・アメリカ原住民と、「大昔に楽園があった」という神話は世界各地にある。恐らくは、日本の縄文時代に見られた深い助け合い社会の事が世界各地にあり、その後は社会

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フェイスブック投稿から
2019年10月14日11:06

近年は8月に毎年、北朝鮮も強い台風に襲われていますね。日本でも全然報道されていませんが、台風の被害などに北朝鮮の人たちはどうしているのでしょうね。気が付いたから、少し書きました。無論、深くは僕も書けない事ですが。台風の前に政治体制の違いはな

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さらに
2019年10月12日15:41

 「人格よりも社会性が大事」。社会性は「因縁」という言葉で表しているが、親鸞上人の見方がそうだね。また、イエス・キリストもそうだと思う。イエスは「人はみな罪人」と。ならば、人格もみな五十歩百歩です。まつさんの人格にこだわる人たちはおかしいわ

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先の追伸
2019年10月12日15:05

あれから思ったが、仮に伊藤まつさんが聖人君子でも、社会的な事が書けない話は書いてはいけないと。読み手が判らず、迷惑するだけだから。その一対一の関係よりも、何かの組織に内向きにこもる方が社会性が更に乏しく、書けないわけです。僕の行った教会関係

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台風が心配ですね。今日書いた通りです。尚、今日はあえて全生園は加えなかった。そこは行っても僕も共生が見えなかった。今になり、理由が判ってきた。元患者同士は仲が悪く、差別の理由を巡り、対立もしている。外部者とも一対一の付き合いを望む例ばかり。

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書いた通り、島田療育園や高島平子供会に行った時の僕も気持ちが非常に前向きになり、楽しく、ITはなかったのに、端から人々と心通わせ、友人になっていった。気が合う・合わないに関係なく。20代前半という年齢のせいもあったと思うが、体も非常に元

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個人個人でも、自分の持つ遺伝子の力が強く発揮される時期があると思う。  僕の場合、それが一番発揮した過去の時期は1977、8年。島田療育園や高島平子供会に行った時だったと思う。だから、その延長で子供向け文と、島田小説も書けるわけだ。未知

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