日曜の祈り。 今日は日本仏教からお話しします。12世紀から13世紀に生きていた親鸞(しんらん)という人の教え。彼の話を弟子たちがまとめて作った「歎異抄(たんにしょう)」の中から。その3章にこのような言葉があります。現代日本語に翻訳された言葉で書きます。
「善人でさえも往生(天国に行って救われる)できるのだから、自分の悪さ、いたらなさを世よく知っている悪人はもっと救われるよ」
ここで言う善人とは、厳しい修行やむずかしい勉強をして徳を高め、魂の質を向上させてそのまま天国に行くことを目指す人たちのことです。キリスト教関係にもいますね。でも、人間はだれも完ぺきなことはできない。それよりも、自然体になり、仏様にお任せした方が利巧ではないかと親鸞は述べているわけです。「いくら徳を積んでも、死の恐怖からは逃れられないよ」と。確かに、天国や生まれ変わりが盛んに言われていた中世ですが、天国から帰った者はいなかったし、死は恐かったわけですからね。でも、必ず死ぬわけで、死の事を強く見つめていた。死を下じきにした言葉です。死を見つめない者たちにはわからないでしょう。
「自然体なり、流れにお任せする」と何もかもうまくいくと言われていますが、それも死を自覚しないと出てこない。自分の力では仕事も、家事も、社会活動も、恋愛や交友もうまくいきません。「他力に任せよう」として現代人は友人や他人任せになり、もっと失敗するわけです。神様任せはさらに失敗。親鸞が生きていた時とは違うと思います。死を自覚しないと何もできないかもしれませんね。
(以上、外国系の人たちにも配ったから「天国」という言葉を使いましたが、現代日本人にもその方が判りやすいかもしませんね)
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