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2020年12月05日12:20

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「心通じるものがないと」の大事な補足

そのインドネシア関係の文。以下でした。


  「インドネシアでは、歩けない人は笛を持っていて、笛を吹けば近隣の人が来て、外出などをさせてくれる。貧しく、福祉が発達していなくても、人々が優しいから体の不自由な人たちも幸福に生きられる。我々日本人もインドネシア人の優しさを見習うべき」。

  インドネシアの身障問題の話は珍しいから、それで僕は覚えているわけです。1977年の文だったと思います。富士福祉事業団の事務所で読みました。当時の僕は賛同。でも、今思い出すと、おかしい。インドネシアもイスラム社会で、アラー=神を通して祈りで自然に人々は連帯し、助け合い、その結果の一つが以上の身障者への近隣の人たちのケアです。コーランの規定もありますが、それ以前に人が助け合うことが本当に当たり前。祈りで連帯すると、こうなるわけです。理屈や理性、感性、やさしさとも別次元の事です。

  その著者の事はきれいに忘れていますが、明らかに以上を見落としている。インドネシアに限らず、イスラム社会では根本的な事なのに。著者は仮に信仰を持っていなくても、編集委員はかなりカトリック信徒もいたのに。祈りでイスラムとも共通するはずなのに、その文を公の広報文に出すのを許した。おかしいわけです。僕の出会ったクリスチャンたちは、伊藤節男伝道師以外は、最初に隣人愛を出し、人間中心の発想。でも、イエスは第一に「神を愛せよ」と述べ、次に隣人愛を説いているのに。

  今の日本やヨーロッパでは、以上の状況はまず作れないでしょう。やろうとしても、障碍の有無なく、ほとんどが祈りを知らないから、気持ちがすれ違い、ケンカになるだけです。それどころか、今日もNHKのデータニュースで、施設職員が入居者に暴力を奮った事件が出ていました。祈りがない社会ではこうなるわけです。近代以降のヨーロッパでも日本と同じらしく、ミヒャエル・エンデが「これで良いのか」と問うています。ヨーロッパでも、キリスト教の理念化が19世紀以来、すすんだようですね。人間中心になったわけです。それ以前に、諸教会は植民地政策に協力したり、十字軍戦争もあったから、すでに千年前からその傾向はあったかもしれませんが。根は深く、優しさではどうにもなりません。


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