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2020年12月04日15:16

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僕にとっての神様

広大な宇宙があり、地球に生命があり、自分がいること自体が、神が在る証明だと僕は思っている。でも、宇宙よりもはるかに大きいため、目に見えない。証明などは不可能。また、神に何かを祈願してもかなえてくれるはずもない。少なくとも、僕個人レベルでは、神はいないのと同じだと思う。それゆえ、子供から20代前半は僕は無神論者だった。でも、伊藤節男伝道師に祈りを教えられ、又、体が非常に弱かった伊藤まつさんと、まずは健康について祈り合っている内に、祈り合う人との間に『神』がある事に気が付いた。あと、群馬に引っ越した元島田園生の寝たきりの文士の野口栄一君とも祈り合う関係になっていった。1980年過ぎかな。そこら辺が僕の信仰心の芽生えだった。でも、当時は交流があったルター派やカトリックの人たちの神学的な話は全然判らなかった。とにかく、芽生えがあったから、たまたま縁ができた例の教派に行ったわけだ。そこの話は今日はしない。
 確かに、神様は僕には命は与えてくれたが、他は恵みも災難や試練も与えたとも思えない。災難とか試練は社会的な矛盾が根だと思われるから。でも、ここからが大事なことだが、誰かと祈り合うと必ず暖かい気持ちに双方がなり、『神の恵み』を実感し合う。神や祈りの共有というものである。
  という事は、神を一人で独占したらそのような気持にはなれないから、その真の恵は受けられないわけである。本人の自由だが、独占したら暖かい気持ちにはなれないわけである。また、教会組織などの偽の神を祈り合う関係は、共有状態ではないから、これも暖かい気持ちなどは出ないわけである。例の教派は冷たい雰囲気がみなぎっていた。海外献金して「善い事をした」と慢心になる例も多いと聞いていたし。その冷たさから戦前の戦争奉仕や戦後の在日韓国系信徒への差別事件やレイプも起きたわけである。無論、冷たさに対抗する人たちもいたが、「聖書から理論武装しなければならない」とか、訳の判らないことばかり言っていた。「理論武装」自体が訳が判らないし、聖書から理論は出ないはずだが。その言葉が印象に残っているので。書きました。
 とにかく、組織的にではなく、祈り合う関係を個人間だけで良いから、増やしたいです。簡単に増やせますし。
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