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2020年12月03日17:13

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理念の問題を更に

笑い話から話そう。五島勉が「ノストラダムス理念は、キリスト教理念を越えている」と著書に。でも、どちらもフランス革命前であり、理念には関係なかった。理念という言葉自体はプラトンの時からあったにしろ、理性主義で人間中心の考え方は本当にフランス革命から出たわけだ。
 若い時、僕は一時ルター派に偏見を持った。その信徒たちは難しい神学理念の話ばかりするから。同様の事を言っていた旧友も多い。でも、あのM・ルターは神様中心の信仰に戻そうとしただけ。人間中心の理念を作ろうとしたわけではない。ルターの伝記を読み、ますます変に思った。「日本人のキリスト教誤解のせい」と言った人もいたが、今思うに、僕の行った教派とは別の意味で、人間中心の理念をキリスト教に当てはめて解釈したに違いない。世界的な現象だろう。19世紀のヨーロッパのキリスト教は本当に理念化・人間中心化が入り込み、すさましい理念論争と宗教戦争も繰り広げられたわけだし。経済格差も広まり、大変な状態になったわけだ。国家・民族理念みたいなものも起き始めたわけだし。明治以降の日本の仏教も理屈が多くなっていった。日本の場合、宗教戦争が近代以降は起きなかった点は大いに評価したいが。日本仏教もその影響受けたわけだ。
 でも、肝心な点だが、どんな理念も人を結ばない。一人一人脳の構造が違うため、同じ理念書を読んでも解釈が本当に一人一人違うから。更には、理性面ばかり交流しても、人間は心が感動、更には、共有できるだろうか。一理念の件に限らず、どんな人とのやり取りでも、理性ばかりでは心が結ばれず、参ってしまうのではないだろうか。猛烈に寂しくなる。
 島田療育園にいた身障園生でクリスチャンのM氏は常に寂しさを訴え、人付き合いも苦手だった。M氏も聖書から理屈ばかりこねていた。でも、そうではなく、聖書の言葉をただ黙って、理屈抜きで、人と分かち合えば、寂しさはなかったし、人とも相当付き合えた。島田の中でも幸福になれたし、聖書の分かち合いから親友や恋人も生まれた。結婚も可能だったかもしれない。残念に思う。僕にもそうしたら、僕も非常に早くに聖書に関心持ち、多くの人たちとも祈れた。歎異抄や仏典も更にそうした。僕も非常に早く何かの理念を捨て、発展できたのにと思うが。M氏に限らず、現代の人間中心の理念は残念に思う。
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