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2020年12月03日09:44

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理念について



 「理念は心のアヘンなり」ではないのか。多くの旧友たちの挫折とか、身障運動、福祉運動の挫折、例の教派の件などから、そのような事に気が付かざるを得ない。一つの何かの理念に執着すると、それしか見えなくなり、違う考え方の人たちを徹底的に叩いたり、自分の状況や力量も見なくなり、ムリな事して、生活も成り立たなくなった例も見てきたし。理念から離れても、人と付き合えない例も。恐ろしい。
 「理念」と言っても、人々は多様だから、当てはまらない例が必ず出てくる。身障者同士でさえもそうである。
 「理念」は1789年のヨーロッパのフランス革命から出てきた言葉かもしれない。それ以降、ヨーロッパの哲学史では「理念、理念」になっている。そのフランス革命後、ナポレオンが出て、考えの違う国々と戦争した。思えば、明治維新から195年までの日本、ロシア革命後のソ連、飛んで中国の文化大革命、ポル・ポト、...理念が強い国は戦争や虐殺が。無論、ナチス・ドイツとか。「理念なき改革」という新聞の政府批判を目にした事があるが、どんな理念が良いのか。その報道は無責任だと思う。政府を弁護はしないものの、マスコミのその報道はおかしいと。
 身障運動、福祉活動は何かの理念に基づきやるものだろうか。また、新約聖書の時代に「理念」はあったのかと。パウロの書いた「教会の頭はイエス・キリスト」も、文の流れからして、当時早くも分裂がたくさん起きて、悩んでいたパウロが考え出したものであり、理念とは根本的に違うはず。おかしいと。理念の事はイエスも、パウロも、親鸞上人もシャカも知らなかったはずだ。
 でも、19世紀にはヨーロッパの各キリスト教派は理念的になり、ケンカしたり、労働者搾取に利用もしていた。ならば、マルクスの言った例の「アヘン」も理念のことかも知れないと連想されるが、その件は僕の力量の及ぶ所ではないので、述べられないわけです。
 フランス革命以来の理念執着を人類は手放す時に来ているかもしれません。「皆、同じ命を持つ人間」ならば、何かの理念は必要ないわけだし。...。

(何かの理念に僕もとらわれ続け、本来あるべき何かの発展が今日まで遅れたのかもしれない。ただし、鏡を見ないと自分の姿は見えないように、僕の具体的な例は書けませんが。だから、大変になった旧友たちのことが気になると。彼らを通して、自分を抑えてきたものを知ろうとしたわけです。結果的に、「理念は心のアヘン」という事にもたどりつきました。)

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