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2020年11月30日14:25

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祈りとは何か?

基本的には意識を極度に集中して念じたり、もっと深く、人間をはるかに越える者に身と心をゆだねる事だと思う。その前に、自分・他人の別なく、人間の力の限界を悟る事も必要だろうが。そして、自分も人間だが、神仏を意識しようが、しまいが、「はるかに越える者」にゆだねるため、自分の心もはるかに自動的に越えるから、他人と心通じる。このようなメカニズムではないか。


  「祈り」を検索すると、まず「お金や健康を神仏に願うこと」という通俗的な事が出てきた。確かに、それも祈りである。でも、お金も、健康も、それを願う事は自己中心的な事であり、自分の心も越えられず、他人とも心通じないのである。祈りの醍醐味は出てこない。ただし、祈りの入門編にはなるから、それはそれで意義があると見ている。僕は子供の時から神社などではそのような祈りはした事がないが。でも、神社の建物やそこに生えている草木が大好きだから、時々散歩には行くわけである。

  話を戻し、他人と心通じれば、親友なり、恋人ができて、親友が自分に必要な情報や仕事を持ってくることも多く、又、恋人と結婚出来る場合も多いだろう。恋愛自体が幸福の例も多い。つまり、「多くの人たちと心通じるから」結果的に何かの願望が叶うことも多いわけである。相手と心が真に通じない場合はエゴが両方丸出しになり、裏切る・裏切られたり、ケンカにもなるが、通じた場合は相手の気持ちも判るから裏切る、ケンカは起きないわけである。

  また、深い祈りの前には絶望が絡む事も多い。その典型がイエスの最後の言葉の「主よ、何故、私をお見捨てになりましたか」という言葉だろう。その言葉は旧約聖書の詩編第22章に書いてある言葉である。その冒頭には「何故、見捨てたのか」とあり、しまいは「子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救いを後に生まれた民にのべ伝えるでしょう」とある。つまり、神様賛美になっている。絶望をバネにして。そのイエスの言葉は別に挫折の言葉ではないのである。(かなり前だが、アメリカの何かの哲学者が「イエスは挫折者なり」という本を書き、日本語訳の広告を僕は見た事がある。学説は自由であり、否定はしないが、その人は旧約聖書をどれだけ知っているのかと、又、それ以上に絶望効果についてどう思っているのか、疑問に思った。その本は買わなかった。因みに、僕はその事は1980年代、遠藤周作の何かの本で知り、理解したわけである。おかげで、イエスはニヒリストという誤解はしないで済んだ。絶望する事とニヒルとは違うから)。


   祈りと言えば、例の伊藤まつさんは僕に「良い彼女が見つかりますように」と祈ってくれた。うれしかった。でも、嬉しく感じた事は、その時の僕はすでに祈りを知っていた事なる。僕は誰から祈りを教えられたのか、と辿っていくと、先日から話している伊藤節男伝道師になるのかもしれない。喜んで伊藤節男氏の話を聞いている内に。人間を越えた者にも想いが行き、祈りの心が伝授されたとこ考えられるから。尚更、ありがたい親友であった事が判る。深い感謝の祈りを伊藤節男伝道師と伊藤まつさんに送ることにしよう。


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