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2020年11月28日14:23

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祈りがないとその果ては殺人や戦争ではないのか

 相模原の障碍者大量殺人の犯人、15年くらい前の小学校大量殺人事件の犯人、オウムの麻原、ポル・ポト、ヒットラー、スターリン。それらに共通したものは、祈りがなかった事である。そして、他人には理解不可能な理屈をこねていた点も共通。祈りが欠落すると他人と心通じなくなる。他人の痛みも感じなくなる。そこに何かの恨みとか、権力闘争、経済要因が絡むと、他人の痛みも感じなくなっているから、人を殺してしまう。こんなメカニズムではないのか。「相模原の犯人」、犯行を精神障碍に求める事は余りにも短絡的である。根拠もない。他の精神障碍者への偏見を広めかねない。確かに、その人は命尊重以前に報道される限りでは、祈りの心が欠落していた。また、今の日本社会に言える事だと。その事件も「小学校大量殺人事件」の繰り返しに過ぎない。更にその事件も、麻原が命じたサリン散布の繰り返しに僕には見えて仕方ない。祈りが乏しく、心通じないと人間はこうなるわけである。


  明治初期、日本で廃仏運動が繰り広げられ、それまでの祈りの心は衰えていき、その後の教育勅語では、祈り抜きでいきなり友愛や仲良く。ムリであった。その後、日清戦争以来、度重なる戦争や、ハンセン氏病患者の強制収容。検証は難しいにしろ、日本に祈りが衰退した後、何故か戦争や差別が増えた。また、祈りがなく、心通じないと人は猛烈に寂しく、「同調」を求めて、外に敵を作る。すでに日清戦争にはその傾向はあったようである。日露戦争の時、「君死に給うなかれ」が非常に叩かれた事でも判る。昭和初期の政治腐敗や、軍部の独走だけでなく、人々の「同調圧力」も中国侵略などを作ったようである。戦後も変わらず、祈りで心通じないから、ライ予防法とか、福祉の遅れ、島田療育園の挫折、僕の見てきた福祉、身障、教会関係の挫折にもなり、今の非婚化や親子、兄弟の不和の激増にもつながっているわけである。

  日本の歴史を見ると、やはり、経済第一主義で祈りが弱まった平清盛の後、戦乱になっている。お坊さんたちもわがままになり、富を求めたり、殺人もした。ほぼ同時のヨーロッパでは十字軍戦争。当時の教会に真の祈りはあったのだろうか。敵のイスラムに対してまとまったが、それはイエスの説いた「敵への愛」に反しているわけである。そのほか、アヘン戦争の時のイギリス。国教会含め、祈りがあったかも疑問である。僕の行った教派も、教会組織=神だから、真の祈りはなく、戦前は戦争奉仕、戦後は牧師レイプにもなったようである。その教派の一部の人たちが「祈りとは何か、判らない。私は真剣に祈った事がない」と暗い顔をして言っていたのが印象的だった。僕もその教会ではまともに祈れなかった。...。(旧友の中には「仕事や社会活動、ミニコミ文みたいなものが人を結ぶと言っている例もある。僕もその影響は受けたが、今は否定的な考え。それらも祈りが絡まなければ他人と通じない。又、祈りがあれば、それらをしなくても他人と通じるからである。それらも価値は認めるが、相対的なものにしか過ぎないと断定もしている)。


  今後日本社会に祈りは蘇るのだろうか。蘇って欲しい。そうしないと、日本に住むすべての人たちが不幸になるし、アジア・世界もそうかもしれないからだ。


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