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2020年11月21日16:11

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愛とは

 「神からの無限の愛を正直に受け取り、深く感謝して、その愛を隣人に振り向ける。これがキリスト教の愛であり、ボランティア活動だ」。
  伊藤節男伝道師から手紙で教えられましたし、曽根綾子さんや三浦綾子さんも著書やテレビで説いていますね。又、日本語訳コーランにも書かれていますし、親鸞上人も(神を阿弥陀仏に変えただけで)歎異抄の中でそのように述べています。
  でも、僕の出会った日本人クリスチャンは、教派の別なく、そうではない。自分の精神力とか、義務感みたいなもので、隣人愛やボランティアする例が非常に多い。島田療育園の人たちもそうでした。冒頭述べた事は誰も言わなかった。その結果、島田職員を猛烈に疲れて止めていく例が多かった。ボランティア関係とか。無論、「心が疲れて」ですね。ましてや、信仰を持たないボランティアは更にそうです。一部の頭の良い人たちが「愛の限界」を考えたりもしたわけです。
  中途半端にもなるので、要介護者などは迷惑するわけです。
  また、友人関係や恋愛、結婚にも以上になり、精神力で友人や恋人、配偶者になり、関わり合いに疲れて、孤独になったり、離婚する例も非常に多いわけです。
  今の僕ははっきり悟りしたが、友情や恋愛も祈りによる結びからの延長だと。神とか仏に祈り合った事の。精神力て友人や恋人なる事はムリだと。また、祈りの結びかなければ、相手の魅力も見えませんし。
  以上、一切が共通しています。「教会組織を絶対視する例の教派」には本当の祈りはなく、個人個人の結びもなく、愛も生まれなかった。健全者間は肉体魅力で結婚し、後は不幸にも。身障を持つ故H氏は結婚どころか、友人も、恋人もできない状態で、ウィスキー飲んで早く昇天するしかなかったわけです。
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