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2020年11月20日11:35

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メールやブログ以上のもの

 直接会う事は別にしても、二つあるようだ。一つは、昨日書いた通り、動画通信。もう一つも、最近気が付いたが、聖書や仏典、歎異抄の分かち合い。コーランでも良い。それら抜きの単なる祈りでも。


   10年くらい前だが、身障を持つある旧友に「メールと手紙はどう違うのか。早いだけではないか。私は機械を介したやり取りは冷たく感じられて、する気がしない」と言われて、僕は返事が出来なかった事があった。TVを見ても、そのような人たちもかなりいるようだ。その後、ケンカは起きなかったが、ミクシーやアメーバで上べだけのやり取りからすぐに縁が切れていく人たちが多く、僕も次第にそのように思うようになっていった。行き詰まりである。それゆえ、アメーバのピグ(アニメ画像のやりとり)や文芸誌会、文通も行なったが、どれも中途半端だった。最近になり、2つ相次いで答えが得られた。

  非常に聖書が好きな人とフェイスブックで出会い、すでに旧約聖書を中心にその言葉の分かち合いをしている。下手な自己流解釈などはせず、ただ言葉を受け止めあう。神に祈り合う。それで心は十分通じるわけである。無論、受け止め方も互いに違うかもしれない。僕は男だが、その人は女性。男女は脳の構造が違うから、受け止め方も違うと思う。そこがまた面白い点だと思う。違うからこそ、すばらしいわけである。明らかにそれまで出会った多くの人たちには欠落していた「祈り」の結びである。


  そして、その相手から先日動画通信の通知。昨日書いた通りである。これも強烈な効果はあるが、祈りの結びの土台がなければ、どうなのかと。危うさも持っているわけだ。

  因みに、いくら聖書の話をしても、受け止めようとせず、自分や人間の為に我田引水的に利用の解釈をする場合は祈りは起きず、心は結ばれない。80年代に行った例の教会関係の人たちがそうだった。具体的な例は省くが、聖書の話も彼らは理屈ばかりで難しくもあり、祈り合う関係はできなかった。それでは、僕が離れたのも当たり前である。その教会に行く前、ある福祉親睦会で精神障碍を持つ例のX君との関わりに僕も挫折し、神とか祈り合う関係を求めていたのに、その教派では得られなかった。僕の行った教会では、芸能人の話ばかりする人たちも多かったし。一様に「非常な寂しさ」を訴えていたが、当り前である。神に心は向いていないから。教会組織や芸能人も「人間の計らい」にしか過ぎないわけである。それはともかく、答えが得られて良かった。


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