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2020年07月08日10:08

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共同体作りのおかしさ

高島平団地で共同体作り運動があったかは聞いていないが、1970年代の首都圏ではそのような運動が各地であった。100%近い確率で、失敗。


  当たり前だ。「共同体」は人々が自然に集まってできるもの。人為的に作られるものではない。人為的に作られるものは「組織」になってしまうからだ。組織はある目的を持って作られるもの。共同体とは違うわけである。

  恐らく、共同体作りの運動をした人たちも、「共同体」自体を知らず、昔の村落共同体の事を本で知り、「そのようなものを作れば、助け合い社会も出来る」と思い、人を集めて、そのような運動をしたのだろう。でも、自然にそのような共同体にはならず、いつの間にか、世間に埋もれていった。

  無共同体社会ならば、個人と個人の友情を作っていくしか、他人とつながる方法はないのかもしれない。現に、例えば、島田療育園にいた野口栄一君とか、多磨全生園にいた伊藤まつさんなどと、僕もそのような関係ができた。とは言え、それらも人為的にできたわけでもない。ふれ合っていく内に自然にできたとしか、言いようがない。共同体同様に「自然に」。人為的に仲良くしようとすると、双方が力むなど、逆に結果は良くないのかもしれない。ケンカにもなると。そう言えば、ある福祉会の目的書の一つに「弱い者たちと友人になります」というものがあった。この場合、「弱い者」とは何か?という事も問題。差別にもなりかねないし。でも、それ以上におかしいと僕が思うのは、会の目的書に「友人になる」と明記した事。その場合、人為的に他人と友人になろうとして、力んだ付き合いをして、逆に迷惑を掛けたり、疲れてしまうからである。現に、その後のその元会員のかなりは、友人という言葉自体が大嫌いになった例が多い。孤独を好むようになった例もかなりある。その目的書は失敗だったわけである。あるいは、多くの小中学校でも、「友人になりましょう」と人為的な付き合いを指導しているのかもしれない。そのような事の反動の一つとして、イジメや無関心にもなるのかもしれない。

  とにかく、人間関係は自然にできるものとしか、言いようがありません。


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