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2020年04月06日11:41

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先に書いたキリスト教の愛の事の補足

  「真のキリスト教の愛は、十字架上で磔になり、血まみれになったイエスの事を徹底的に想い、その猛烈な苦痛を直感的に体得をまずする。そうすれば、イエスから無限の愛が与えられ、どんな人にも自己犠牲もいとわない愛=アガペーを与える事ができる」と僕も何回も聞いた事があります。特に、ラジオやテレビで。その一人が、マザー・テレサでした。素晴らしい人生だったわけですが、何もテレサ本人の精神力ではなく、「イエス・キリスト」から与えられた他力の愛でした。第二次世界大戦中に、ユダヤ人の身代わりに殺された神父もそうですね。でも、僕の出会ったクリスチャンたちは、教派の別なく、そのような例はありませんでした。自力で愛をしようとして、挫折した例ばかりでした。マザー・テレサは感受性が天才的に鋭かったようですが、そのような素質でもない限りは、難しいかもしれません。


  更に言うと、十字架上のイエスの時は、キリスト教の教会組織はなく、従って、その事も思わなかったし、勿論、セックスの事は思いませんでした。僕の行った教会で複数の牧師がレイプしたり、教会組織の為に隠ぺい工作する事は、どう考えてもイエスの磔の苦しみを受け止めているとは言えませんね。歴史を遡っても言えるでしょう。僕が中学の歴史の時間に習った「教会の免罪符」の問題にも言えますし。もし、歴代の教皇や神父だけでも、全員がまともに以上の通りならば、十字軍戦争は起きなかったでしょうし、近代期の植民地政策に協力する事もあり得なかったでしょう。プロテスタント関係もそうならば、金を重んじる資本主義も生まれていないわけです。では、感受性が天才的ではない人たちはダメなのか。多くの人は救われないのか。

  救われる方法は本当は無数にあるはず。僕は歎異抄からヒントを与えられつつありますし。たまたま僕の性格に歎異抄が合っていたわけで、一人一人に合う救いは絶対にありましょう。

  聖書を中途半端に実践し、一時は失敗した人たちも、「傲慢になっては仕方ない」事を後年は悟るはず。そのような声も聞いた事もありますし。時間を掛けても悟る。これで良いと思います。自分の傲慢に気が付く事も大した事ですし。

  以上、先に述べた事の補足を書きました。


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