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2020年03月30日13:59

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フェイスブック投稿から

聖書にある「隣人愛」は実は2つ前提条件がある。「神への愛」と「自分への愛」である。まず、この2つに気が付かないで、隣人愛をすると必ず「お節介」みたいになり、ケンカなど、双方で悪くなる。
 「神への愛」。残念ながら、僕の出会った多くの牧師たちは判らないか、「教会組織」みたいな明らかに人為的な答えばかりだった。
  また、「自分の愛」と言っても、例えば、不死に自分をできるわけでもないし、それも難しい。
 僕も「愛のもつれ」ばかり見てきた気がする。島田療育園での見聞は勿論、身障団体やボランティア関係のケンカも、多くの離婚も「愛のもつれ」で説明が付くのだ。更には、互いに、又は、一方でも相手を愛そうとすると力むし、「愛する・愛される」の関係に二分してしまい、心も逆に壁ができていく。愛するという行為は人為的な面が強い。
 思うのだが、友人関係や恋人関係の核は「付き合いたい」気持ちではないか。結婚の核は「一緒にいたい」気持ちではないか。愛したい・愛されたいという気持ちは最初はないのではないか。「愛さなければならない」とか「愛を求めなければならない」と思うようになり、関係が狂う。僕の見た多くのケンカはそうだし、僕自身も色々と経験した。
 ならば、いつまでも初心のままで、自然のままに気持を持ち、付き合えば良いと。他人のためにするような力などは自分にないと正直に悟り。親鸞上人の説いた歎異抄に書かれているのはそのような事だが。僕自身、そのように悟り、非常に気が楽になった。無論、皆様にそのようにあれと言うつもりはないが。考え方は個人個人違って当然だが、以上は僕が想った事を書きました。
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