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2020年01月13日11:44

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諸々の差別の根は、「死」を忌み嫌う意識か?

1982年、元学生ボランティアの一友人の結婚式。脳性まひを持つ僕と、もう一人の脳性まひを持つ主婦も招待された。でも、その一友人の親戚の誰かが「身障者は挙式に来てもらっては困る」と言い出し、結局は押し切られ、行けなかった事があった。当然ながら、僕は何故排除されなければならなかったのか、理由を求め続けた。理由の大きなヒントは、その5年後くらいに聞いた放送大学の文化人類学系の複数の講義で得られた。祖父江孝雄・熊倉功の各教授が「ハレとケ」の説明をされていたから。「ハレ」は「晴れ」に語源を持つ言葉で、特に結婚式が庶民では代表的な例。「ケ」は「穢れ・汚れ」に語源を持つ言葉で、その極が死だとされていて、「ハレの席では、死を連想させる物は持ち込んではならず、言ってもならない。そのような事を連想させる人たちも来させてはならい」。...。


  確かに、健全者と言おうか、世間から見れば、脳性まひ者たちも健康な人たちに比べて「死」に近い存在である。そこから死を連想・見つめる人たちも健全者には非常に多いわけだ。ならば、僕などが排除された原因も、そのような事になってくる。特に、挙式の場だから、露骨な差別が起きたが、実際は日常的に起きている事である。身障関係の差別も実はその種類により、強さに強弱があるが、死を連想させる障碍ほど、強く差別されている。手足が動かないだけの状態のポリオ後遺症者よりも、手足の硬直や顔の歪みのある脳性まひ者が差別は強く、また、脳性まひ者よりも、死人や死に神を連想させられるハンセン氏病元患者たちへの差別が強く、長年に渡り、隔離もされてきた。実際、元患者の姿を見て、自分の死も連想し、非常に落ち込んだ人の例も知っている。もっとひどい例は筋ジストロフィーかもしれない。胎児段階でその障碍を持っていると判ると、中絶する例が非常に多い。「短命のかわいそうな子を産むのは忍びない」という理由が多いわけだが、本当に可哀そうか、どうかは本人でないと判らない事である。また、発作の時、全身が死体のように硬直する例もあるテンカン持ちとか。僕もそのような人の硬直の姿を見て、死を連想し、恐ろしくなった事がある。例のX君ですね。また、「精神障碍者は精神が死んでいる」と思われているのか、そのような人たちへの差別も強い。複雑な事に、身障者たちもそのような意識を持っているようだ。僕の見聞きした範囲内でも、脳性まひやポリオ後遺症の人たちは「筋ジストロフィーの人達は短命でかわいそう」という同情の意識がある例が多いから。昔の僕もそうだった。その同情とは何かというと、「優しさと差別感情の入り混じったもの」である。同情の中には差別感情も入り混じっているわけである。でも、そのような人たちは、限られた時間内でやりたい事をやり、人生を燃焼させ、逆に幸福な例も多い。たまたま僕の一番気が合う同級生のコーイチ君がそうで、書けない僕の代筆をしてくれたり、掛け合い漫才やチェス・チェッカーもして楽しくやった思い出もある。その話は別の時に述べたいが、死ぬ直前まで文通した関係もあり、述べさせていただくと、決して、自分の事を不幸だとは言っていなかった。多くの人たちに感謝するなど、人生に対して肯定的で、僕も多くを学んだし、今もコーイチ君から学び続けているのである。

  障碍者関係外でも。死体処理業など、死に関係する職業を先祖代々強いられてきた人たちはどこの国でも差別されている。また、例えば、日本社会から見て異界に当たるアイヌ・琉球・朝鮮半島系の人たちへの差別とか、やはり、ドイツ社会から見て異界に当たるユダヤ系やロシア人への差別が強いが、異界も死の世界、つまり、死を連想させるからの面も強いと思う。このような差別はどの国も昔からあるわけである。

  よく聞く、身障者が恋愛や結婚の対象から除外される根本理由も以上ではないか。しかも、無意識的に除外される例が非常に多い。確かに、死を連想させる者を相手にキスしたり、一緒に暮らす事は想像しただけでも恐怖心を感じるだろうし。深層心理の次元の問題だから、差別する側も理由は判らないし、恐らくは身障者のほとんども理由が見えないわけである。挙式差別の事も同様である。身障の俳人の故花田春兆氏など、かなりの身障関係の著書やミニコミにも、身障者の挙式拒否の例がたくさん載っている。島田も報じた身障ミニコミ誌も。但し、その理由については、述べられていないか、「封建制・イエ制度」みたいな抽象的な述べ方に留まり、訳が判らない書き方になっている。

  さて、その対応策は、「誰もが死ぬ」事を当たり前のよう意識し、目もそむけず、市民同士が語り合っていくしかないだろう。死後生を認める人も、認めない人も。

  そう言えば、「資本論」には、資本家が労働者を搾取しつつも、儲ける当時の事実が述べられている。但し、その理由にはマルクスは突っ込んでいない。そうした理由は、資本家たちが不死を目指したからだと思う。死の実感は高齢にならないと湧かないわけだし、特に当時は社会保障もなく、お金がなければ、死を意味したわけだから。マルクスは多忙で、そこまで突っ込んで書く事は出来なかったと思われる。かなり前だが、朝日新聞に和光大学の一教授が「資本主義は死から逃れる目的のもの」と指摘した記事を読んだのも覚えている。死を見つめ合う社会では、資本主義も大きく変わるかもしれない。経済にも関係するわけである。(冒頭に書いた元ボランティアや身障女性の反応については、書きません。書かなくても文は成立するし、プライバシーもあり、書けないわけです)


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