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2019年12月10日13:08

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戦後日本の女性問題と福祉

アメリカでは黒人やアジア系、原住民、ヨーロッパでは戦争難民や旧植民地の労働力使用が福祉の始まりにあった事は前に述べたが、日本ではその役割は戦後の女性たちが担っていたとも考えられる。例えば、島田療育園の職員は圧倒的に女性が多かった。それも創立期は中学卒の女子が多かったわけである。1967年に都立光明養護学校などで導入された介助員(臨時職員で、身分も保証されていなかった)も、ほとんどは夜間学生だったが、それも女性が非常に多かった。他の福祉関係でもそのような傾向があったと言われている。僕が取っていた身障ミニコミ誌には、その問題を「女性は歴史的に『世話する性』だから」と述べていた。その事を深めてもらえば、相当大きな問題が出たと思われるが、その少し後から島田療育園にのめり込み、女性が圧倒的に多かった職員たちも叩くようになり、女性問題を忘れるようになったのが皮肉であり、又、残念であるとも思う。


  戦後日本では、男女は同じ学校で、同じ教育を受けるようになり、かなりが大学に行くようになった。ところが、卒業して、会社に勤めると、いくら見識があっても、お茶くみとゴミ捨ての雑用ばかりで、低賃金。「会社でお茶くみか、家事手伝い」。これが1980年ごろの日本の大学・大学院を出た女性たちの置かれた状況だったわけである。1970年代後半に僕が所属していた学生福祉会にいた女性たちもほとんどはそういう状態。彼女たちは少し先の自分の運命が見えていた。でも、男性たちはその事が判らなかった。当然、男女の意思疎通がまずうまくいかなくなった。役員になる人も、男性か、女性でも教員志望の女性たちに限られていた。教員志望は、やがて学校の先生になるわけだが、それは戦後間もない時期から男女平等が保証されている。他の女性たちと違って、就職後の苦労もない。そうすると、他の女性たちの気持ちも判らないと見える。何もその福祉会の人たちに限った事でもない。僕も高校時代まで、多くの女の先生に教えられてきたが、誰も世間の女性たちの就職問題の悩みを話していた事もない。日本中の先生たちもそうかもしれない。女性でも、教員関係とその他では断絶があるようだ。その世間のひな型を僕はその福祉会で見てきたわけである。とにかく、男女とか、教員・非教員の断絶が生まれれば、会の中の意思疎通もうまくいかなくなる。会員たちは独り言みたいな事ばかり述べ、次第に会も潰れていったが、それも当たり前だった。強いて言えば、僕含めた男は対女性への思いやりを持つべきだったし、教員関係は非教員の事たちに思いやりを持つべきだった。このような状態ならば、男女交際や恋愛、結婚は不可能だし、友情も難しいわけである。

  人伝手に聞いた事だが、有名薬大を出た一女性が「研修生」扱いのため、無給で毎日12時間働かされ、「死にそう!」という悲鳴を上げていたそうだ。そのような例は80年前後の日本各地にあった。

  現在はどうだろうか。男女雇用機会均等法が施行されたが、現実は女性間の格差も広がる一方だし、シングルママの問題も深刻である。「日本中が男女の断絶」があるのならば、仮に一時の感情で結婚しても、意志疎通はうまくいくはずもなく、子供の有無に関わらず、離婚もするわけだ。

  男女は元々身体も、脳の構造も違うから、まともでは理解し合えず、察し合いとか深い思いやりが必要。男女の問題は、例えば、戦争の問題よりも難しいはずである。男女のいさかいのない世界は、戦争も起きないと僕は見ている。

  (因みに、僕が80年代に行った教会関係は、以上の学生福祉会よりもはるかに男女の断絶が強かった。男女の意思疎通・思いやりもなければ、レイプするような牧師も複数出るわけだよ。どうにもならなかった)

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