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2019年11月28日16:55

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共同体筆記の難しさ

実録拙小説「シマハタ」だが、一旦、1965年(昭和40年)の事を書いて、その前に大事な事項が発見され、2、3年逆戻りしたわけだ。近く、8章以降のものを並べて再公開したいと思っている。しかし、こんなものだろう。大体、人間という動物は心身共に常に変化する。特に「心」が誰でもくるくる変わる。ならば、その人間たちの多く集まっている共同体とか、社会はもっと変化するわけだ。日本国も一概に「〇○だ」と断定できない。新憲法発布以降を「日本国」とすれば、1947年ごろと1968年ごろ、2000年と、かなり政治・経済・社会と大きく国風は違っており、断片的には語れない。島田療育園も同じである。


  そこで思い出す事がある。縁あって、1976年、東京VYSという福祉会に入った。入りたての時は母校の光明養護学校の事を断片的に語っていたが、語ると何かその会員は光明養護学校に偏見的な印象を持ち、変だった。入会して半年後に、「断片的にばかり光明養護学校の事を語っているから、皆は判らず、変に思われるのだろう。いつか、しっかりした文が書けるまで、光明養護学校の事は語るのを止めよう」と思うようになり、そこに島田療育園への問題意識も重なり、母校の事は以後語る事はなくなった。以上の想いすらも忘れてしまい、その後は他の福祉会、親睦会、キリスト教関係と語る事はなくなった。子供向け文に遠足や林間学校の事を語るだけで。

  振り返るに、それで僕は良かったと。例え良い事ばかりでも、光明養護学校の事を語り続けたら、誰も誤解するだけだから。それはまずいわけである。今の僕が思うに、もし、光明養護学校の事を述べるとしても、僕の在校中に限っても、体験小説という形しかないのではないかと。それなら、時間ごと、順序立っての話ができるから、読者は判ってくれると。但し、小説を書くのには「強い問題意識」が必要。どんな学校関係の小説を書くとしても、教育に強い問題意識を持つような人たちでないと書けないわけである。僕はそうではない。本当にそうならば、例えば、放送大学で教職課程講義を学び、乙武氏みたいな教育関係の生き方をしたわけだ。その場合は、島田療育園にも、多磨全生園にも行かなかったと推察している。こんなものである。人間は一度に複数の問題意識は持てないわけだから。

  「断片的」な話がダメである例も少しだけ知っている。ある身体障碍者が「昔の養護学校のリハビリはきつかった」と学生ボランティアに言ったところ、その学生は「だから、養護学校はダメだ」と思い、その前から養護学校に悪いイメージを持っていた事もあり、更に、反養護学校の考え方になってしまったという。強いて言えば、そのような事は医者や医学生に言うべきだったと。何も養護学校に限らず、1960年代の日本のリハビリは非科学的で、きつい訓練ばかり身障児者に強いていたわけだから。その学生も、養護学校の事を順序立って聞く事はなかったわけです。もっとも、小説形式にしない限り、全ての人たちは自分の学校時代の事をまともに語る事は不可能でしょうが。とにかく、共同体筆記は難しい。オウム真理教の全容がなかなか掴めない理由の一つでもありますね。

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