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2019年11月19日15:17

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ブログ一区切り

僕やかなりの旧友の非婚状況、島田療育園が狂った謎、第二次世界大戦やナチスの因縁、複雑な日本のハンセン氏病問題...、それらの為に僕の心は常にハングリーであり、又、答えを求めての思索をして、次第に答えを日本・世界の歴史に求めるようになったが、「愛と共感の混同」が根に強くあることが大体判り、更には、西洋の相当古い歴史にまでさかのぼりそうだと判った所で、気が晴れた。千年間の因縁が本当にあるのならば、これ以上は思索もできないわけだし。確かに、愛と共感の混同をする人が世界的に目立ち、共感されて人生が狂う例もかなりあるが、ならば、その違いが判った僕は、愛に徹して生きればよいだけの事。例の島田療育園の小説もこれからは僕なりに納得がいくものが書けるだろう。


  日本の歌謡曲は心地よくて、僕も好きである。でも、その歌詞の内容が、何かおかしい事に1970年代から気が付いている。同様に思う、東大法学部の一友人と話した思い出もある。二人で「愛は感じ合うものだろうか。おかしい。しかし、愛とは何か。判らない」と言い合った思い出もある。歌謡曲で歌われているものの多くは、優しさへの共感とかフィーリングみたいなものであるようだが、当時の二人は判らないなりにもその答えを必死で探していたわけである。懐かしい。確かに、共感は良い面にしか行かない気持ち。これに対し、愛は相手の全てを包み込む、幅の広いものである。人間の心は99%はどうにもならない面があるのだろうが、共感で選び合い、結婚すると不幸になるわけである。

  因みに、双方が愛で結婚しても。人間のする愛には限りがあるから、双方、相手に対しても、自分に対しても納得がいかないかもしれない。独身の人でも、結婚生活を想像すれば、容易に判る事だと。相手をまともになかなか包み込めない。でも、進歩させる事はできる。こうして、どちらかが死ぬまでには愛はかなり深まるし、死後もそうすると考えれば、無限の時間を掛けて愛は完成する。これがカトリックなどの言う所の「夫婦は神の下の永遠の愛」なのかもしれないと察したわけである。

  以上ならば、僕も仮に結婚しても、今と同じように、心はハングリーだろう。ハングリーの形態が少し変わるだけで。そのような事も今は想像できる。

  また、ただでさえ人間の愛は限界もあるのに、共感みたいな事と混同したら、どうにもならないではないか。

   さて、今後も例の小説は書き続けるし、子供向け文や文芸誌投稿文もブログに投稿し続ける。政治や社会、福祉のおかしな面に気が付けば、随時書きたい。でも、思索は一区切り付いた以上、これからのブログは減るだろう。これで良いと僕自身は思っている。今までは思索の為に書いてきたようなものだと自分では思っている。(無論、医学的な事や、外出の様子も書き続けるが)

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