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2019年10月18日11:46

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かつては僕も愛の区別がつかなかったから、島田療育園の歪みも書けるわけです

 数ヶ月前に例の小説で書いた通り、島田療育園では、小林博士以下のアガペーと親子愛の混同がひどく、それが成人後の園生たちへの対応の問題に深い影を落としていくわけである。では、この僕は、どうなのかと言えば、同様に若い時は全ての種類の愛を混同していた。1977年6、7月、島田の身障室に行き始めた僕は二人の身障園生や職員たちから「人との関わりは愛でなければならない」と言われ、その通りだと思ったが、まだ聖書は読んでいなかった時期なので、アガペーも、友愛も、家族愛も皆同じだと思いこんだわけである。そして、その直後に多磨全生園で知り合った元患者の伊藤まつさんというおばあさん元患者にも、アガペーだと思い、「おばあちゃんになる」と述べ、そのまま付き合ったわけである。85年にまつさんが昇天するまで。結果的には良かったが、明らかにアガペーの誤解からくるものだったと今は気が付いている。それでも、「おばあちゃんと孫」の関係だから、あっさりしたものになり、良かったが、もし、これが「お母さんと子供」、つまり、疑似親子愛ならば、束縛がどうしても入るから、まずいものになったと思うわけだ。


  80年代に行った教会関係で出会った信徒たちのほぼ全員も愛の区別が付かない者ばかりだった。恋愛とアガペーの区別さえ付かない。牧師たちでさえも。その頃から僕は聖書を繰り返し読み始めたが、文脈の流れから、又、「父母などを捨てても、私(キリスト)に従いなさい」みたいなイエスの言葉からしても、聖書の愛は他の愛とは違う事に気が付き始めていた。同様に、仏教の菩薩愛も。そのあたりから、島田のアガペー誤解も見え始めたわけである。家族愛とか友愛は非常に狭い愛、アガペーや菩薩愛は全世界的な広い愛である事を聖書や歎異抄などから知っていった。

  以上の教派は明治からあるが、日本で作られた時に、教会共同体を大家族風に解釈し、そのまま当てはめ、牧師がお父さん、信徒たちが息子、娘の関係に置き換えられ、その伝統で続いている。主教は、大家長。1945年までの日本にあった大家族制は人権は大家長や家長に限定され、特に女性たちの人権は認められていなかった。女性は嫁になり、犠牲的な生活を強いられたが、その女性の人権を軽視する風潮が戦後も残り、牧師=家長という傲慢な面もあり、二人のレイプ牧師を輩出した面があるのかもしれない。これも困った所だった。

   例えば、聖書の原本である古代ギリシア語とか、イエスが実際に話していたアラム語では、アガペー、フィリア、エロスとか、厳密に言葉が区別されている。でも、日本語では、全部「愛」である。ならば、ほとんどの日本人は、愛の種類の区別も付かないし、混同もしてくるわけである。言葉の問題はどうにもならない。困ったものだと思う。強いて言えば、気が付いた人たちは「愛には種類があるんだよね」と語りかけていく事しか、対策はないだろう。

  それはともかく、自分もかつては愛の区別は付かなかったから、愛を混同する人たちの気持ちも判り、島田の事もその分書けるわけである。





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