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2019年05月27日11:46

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「私が棄てた女」の修道女発言の問題点2つ

  「患者同士が支え合う愛の世界」の所です。それは、ハンセン氏病が患者さんたちの心のつなぎになっている事が前提として読み取れますね。今の僕が見るに、2つの問題点があるように見えます。


   一つは、ハンセン氏病に限らず、病や障碍が人と人のつなぎを果たすか?という事です。脳性まひ者たちの身体や体力の状況も一人一人違うし、考え方も、やりたい事も一人一人違う。「脳性まひ」でまとまっての会は作れないし、作ろうとして失敗した例も僕は見聞きしてきました。40年前の首都圏では多かったようですね。僕の経験から言っても、複数の元患者たちの証言から言っても、それはあり得ないように思えます。

  二つ目は、もっと大きな問題です。ユダヤ・キリスト・イスラム教では「神だけが人を結ぶ」という考え方です。神を阿弥陀仏に変えれば、日本で生まれた浄土系の宗教も同じ考え方です。ならば、聖書的に見て、神の被創物にしか過ぎない病や障碍が人を結ぶのか?にもなってくる。本当に結ぶならば、聖書の思想体系も崩れてきます。もし、そのような修道女が一人でもいる修道院があれば、そこは潰れていくと思います。無論、それは架空の修道女であり、現実にはいないと追われますが。例えば、同著者が書いた「沈黙」は極限状態の中、信徒仲間たちの命を助ける愛の為に上べは棄教して、踏み絵を踏む事は、「愛とは何か。信仰とは何か」という論議も出てきますが、「病や障碍をつなぎに」はそのような議論も起きないでしょう。


  モデルの神谷恵美子を検索すると、今はかなりの元患者たちから「ライ予防法を推進し、隔離を進めた差別者」と手厳しく批判も出ているわけです。また、僕が知っているかなりの発言でも、ハンセン氏病患者を一からげに見るような発言が目立ちます。無論、遠藤氏が生きていた時期は、そのような事は公にはされず、遠藤氏も知りませんでしたから、仕方がなかった面もありますが、問題は問題にしたいと思います。


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