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2019年05月20日15:20

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厩戸皇子の思想の仮説

  これから書く事は仮説であり、まともに信じないでもらいたい。


  厩戸皇子は20世紀の日本では「聖徳太子」と呼ばれていた。僕の子供の時は、一万円札にその肖像画が描かれていたから、おなじみだった。それについて、詳しく聞いたのは小学5年の時の社会科だった。担任の先生が厩戸皇子が好きである事もあり、よく教えてくれた。「和を以て貴しとなす」もその時に覚えた。中学2年の歴史の時間では、「聖徳太子は、仏教にのめり込んだ」と教えられた。


  ところが、高校の時、高田好胤和尚などの仏教の本を読み、仏教の核心は「執着を手放し、限りなく広い心を持つ事」だと知り、厩戸皇子の発想はやや違うかもしれないと思うようになり、違和感を少し持った。でも、当時はインターネットはなかったし、僕の付き合う範囲も学校関係と、数少ない学生ボランティア、親戚関係に限られており、その違和感はそのままになり、いつの間にか、忘れてしまった。

  それからかなりたった1990年ごろだろうか、日本にノストラダムス予言を紹介した五島勉氏が、聖徳太子の未来記も紹介。その本に、五島氏ではなく、歴史研究家の一部の説として、「聖徳太子は中国・朝鮮からの渡来人たちから、景教(キリスト教ネトリウス派が東進し、中国風になった宗教)を知り、聖書も読んだ形跡がある。「厩戸」は馬小屋の事であり、イエス・キリストが生まれた馬小屋を意味する」と書かれてあった。その本の内容自体は、聖徳太子が予知能力があり、21世紀まで予言していたというものであり、予知能力自体は否定はできないにしろ、聖徳太子はそのような人ではなかったので、おかしかったが、高校時代の違和感を思い出させてくれた。(聖徳太子は超能力者説は、誤解により、作られたものだと見ている。例えば、大陸から渡ってきた気象学の知識をもとに、雨や雪の予報をして当てたとか、天文学の知識から日食を予報し、当てた事から、そのような誤解が生まれたと僕は見ている。相当な科学知識もあったと。やはり、中国の諸葛孔明もそうだし。天気や風の予報した事から、超能力者説も生まれている)。

  とは言え、当時の東アジアは非常に国際化していて、中国や朝鮮半島には、西方から色々な民族の博士や宗教家も来ていた。ユダヤ人も、ペルシャ人も、ヨーロッパ系の人たちも。ゾロアスター教やマニ教、キリスト教ネトリウス派、ユダヤ教も、中国・朝鮮に多く入り込み、内、ゾロアスター教は日本にも来て、拝火教と呼ばれ、仏教に取り込まれ、護摩になった事は有名である。ならば、景教の伝道師も当然、海を渡り、日本に来ていてもおかしくない。

   一方、厩戸皇子は中国語(漢文)もすらすら読め、書けた。それを通して、日本に来ていた外国人たちと多く付き合い、話を聞き、中国大陸の様子も知る事ができていた。ならば、景教伝道師とも接触し、中国語に翻訳された新約聖書を読んでいた可能性もかなりあるわけだ。新約聖書の核心は「アガペー」。現代日本語や中国語では、それは愛と訳されている。でも、それは「和」でもおかしくないと思う。現代もそうかもしれないが、特に当時は愛はまだ一般的な言葉でもなく、「和して同ぜず」のように、「和」が広い意味で使われていた。ならば、アガペーが「和」と訳されていた可能性もかなりある。

   それと当時の日本人。仏教と景教の違いが判っただろうか。いくら厩戸皇子でも、混同したはずだ。景教も、仏教の一派だと思うのではないか。江戸時代、日本に来て捕まったシドチ神父から新約聖書を読んだ新井白石が「キリシタンは、仏教の一派なり」と述べた記録がある事をラジオで聞いた事があるし。江戸時代でさえもそうならば、太古の時はそのように混同してもおかしくない。

   そして、「隣人を愛せよ」と現代日本で訳されている所から、「和を以て貴しとなす」とした。僕自身も信用はしないが、そのような可能性もあると。そうすると、その言葉の出所がすっきりするわけです。本当にそうなのかは、歴史的な物証次第です。それがあれば、定説になっていくわけですが、仏性が出ない内は断定はできません。でも、だから、未知の歴史は面白いとも言えるわけです。

   「和を以て貴しとなす」は以後、現代に至るまで我々日本人の心を貫いています。本当に新約聖書が出所ならば、江戸時代にキリシタンが迫害された事も歴史の皮肉だと思います。とは言え、カトリックなど、西方キリスト教は景教とは違った進化を遂げたわけだし、江戸時代のキリシタン弾圧は当時のポルトガルやスペインの日本植民地計画防止のためという、政治・経済面が絡んでいるから、事が複雑です。

  因みに、「聖書と歎異抄(五木寛之・本間哲郎共著・東京書籍)」で、五木寛之が「親鸞上人が景教関係者からの漢訳聖書を読んだ説もある」とさらりと述べています。五木氏も断定はしていません。また、例の「日本社会の歴史・網野善彦著・岩波新書)」の中巻の150ページに、「念仏者を妨害する人たちのためにも念仏せよ」と親鸞が説いた事が記されてあります。その本には、聖書との関連は述べられていませんが、新約聖書にも非常に似た事が書かれてある。本当に偶然の一致か、僕には判りません。厩戸皇子と親鸞上人は聖書を読んだのか、今は何とも言えないわけです。

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