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2017年07月22日16:31

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若い時の運命の面白さと貴重さ

  1976年以降、僕は世田谷の身障会と、学生の福祉会のVYSの2つに入っていた。でも、その身障会はすぐ内紛が起き、ケンカばかりになり、行けなくなった。何故かねえ。今もその会長だった人にも「わからない」わけだ。サポートするボランティア同士も、ケンカばかりしていたらしいし。
  身障会に行けなくなったから、VYSの高島平子供会に参加するようになった。身障会がまともならば、子供会参加もなかったわけだ。
  でも、その子供会もこれまたすぐ潰れた。人員不足。VYS自体が構成員の視野が狭くなり、そこも内紛も起きて。そして、高大生の会という別の福祉会に行き、そこで精神障碍を持つX君と知り合い、色々と関わり合った。X君は僕の車いすも押してくれたり、食事の介護もしてくれた。僕はX君を通して精神障碍者の過酷な差別と偏見を知ったし、それまで僕も精神障碍=クレージーとしか思わなかったが、それは大間違いである事も知った。その会にも力に限度があり、結局は追い出してしまったが、精神障碍の事もそれ以来ずっと考えているし、直感的に僕のその事が判るのだろうか、マイミクにもそのような人たちも多い。光栄な事だと思う。
  でも、異次元SF的に過去を変えたらどうなるか。例えば、世田谷の身障会を存続させたら、僕は子供会に参加せず、今の子供向け文はないだろう。また、高島平子供会を存続させたら、高大生の
会に入る事はなく、X君との関わり合いもなく、相変らず、精神障碍=クレージーという偏見も持ち続け、今のその障碍をお持ちの方たちとの付き合いも存在しない。どっちにしろ、狭い僕になっていたわけだ。詳しくは述べないが、例えば、VYS構成員だった人たちも、VYSが存続していたら、皆狭い生き方になっただろう。運命は面白いし、その流れを信ずることは大切だと思った。
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