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2017年03月23日14:17

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子供会も一緒にしたフェイスブックの旧友にあてたもの

 高島平子供会。子供たちは言いたい事を活発に言っていた。それは良いが、普段の生活の場で会話がどのていど行われていたのか。今の僕はその面に注目もしている。無論、昔の僕はそれに注目しなかったが。人は変わる。僕も変わるわけだからね。
 例の初童話を書いてから更に強く思ったが、「言いたい事を言う関係」は会話でも、交友でもないからね。協調性が欠けているから。何も子供だけでもない。現代は大人も欠いている人が多い。昔のVYSや世田谷関係もそうだった。各人が独り言の羅列。だから、VYSでは抽象的とも思える事ばかり言っていたと。独り言だとすれば、理解もできる。
 世田谷ではねえ。早い時期にボランティアで「労働運動に障碍者は必要ない」と言う人が出て、身障者たちから「バカヤロー」の集中砲火。協調性と会話能力が欠けていたからだと。どんな人でも他人との協調性があれば、以上の発言はないだろうし、受ける身障者も、「それではどうするか」という答えを出せると思う。「言いたい事を言う」にこだわると、極端な例はこのような恐ろしい状態になっちゃうと。あるいは、訳の判らない理屈を言うとか。
 僕も昔は多くの人たちから「言いたい事を言う関係を作りたい」と言われて、それでどうなるのかが判らず、それに従ったが、全てアウト。中途半端に切れている。当然だったと。
 一方では、寡黙な人と付き合い、充実した交友ができた例や、今も交友している例もあるからね。子供会も一緒にした、今は弁護士の方との付き合いもその一つ。その人は元々は寡黙な性格だと。精神障碍問題に一緒に取り組む関係にも。これからも手紙だけ、それも数ヶ月に一度の通信を予定しているが、そのような関係ができて良かったと。
 話を過去に戻すと、例えば、「子供会は必要ない」みたいな発言も独り言であり、言いたい事は言っても、協調性や社会性に欠ける発言だったと気が付く次第です。大体、皆自分の大学で友人を作れないという問題があったから。通信教育の僕とは違い、人と出会う機会には恵まれていたのに、友人作れず。何だと。大学で友人作れていたら、少なくとも、抽象論を述べるような事しかできない学習会の場には皆来なかったわけだが。
 今の僕は積極的にフェイスブックやミクシーで端から友人を作っている。これで良いと。協調性が大切だと気が付く想いです。
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 70年代を顧みると、大学や職場で付き合いができないから、ボランティア会に行く若者も多く、それも現代の問題を物語っています。
 「言いたい事を言う」だけで協調性がないと、恐ろしい事になるのかもしれない。学校崩壊もその一つで。無論、離婚もそうだし。
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