新約聖書にはイエスの言葉として、「富と神に兼ね使える事はできない」、「金持ちが天国の門に入る事は、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」などと、何回もお金自体を疑問視するようなものが出ている。あるいは、長時間勤めと短時間勤めの人の賃金を同一にする例え話とか。それゆえ、イエスに特殊な面を感じて、その面からも僕は聖書に興味を持っていった。後年のマルクス以上に社会主義的な色彩が強いかもしれない。今までの僕は、仏教同様に、お金は諸々の欲望を煽るからよくないと解釈してきた。それも正解かも知れない。でも、もっと深い理由がありそうだと。
それは、人類のお金への特別意識は強烈で、それ自体がイエスの絶対視している神への信仰を打ち消す・歪ませるからだと。そこを大前提とすれば、イエスが言われた事も見えてくると。神への信仰だけが義だと。恐らく、ルターもイエス信仰に戻ろうとしたかもしれない。でも、歴史は皮肉なもので、プロテスタント系の教派から「儲けによる資本蓄積は神からの報酬」という考え方が出て、労働者搾取を正当化したため、マルクスがそれを痛烈に批判した。例の「宗教は心のアヘンなり」もそこから出たものだと聞いた事がある。宗教とは何かを示さず、ただその現象を批判した事は短絡的だったと僕も思う。でも、儲けの為に労働者搾取して、神の名の元に正当化するのはおかしいと。又、ヴァチカンの金権不正が多かったように、西洋では資本主義以前からお金崇拝は本当はあったと僕は見ているが。何も近代以降だけでもないだろう。キリスト教が広まっても、イエスの教えには程遠い状態が続いたわけである。
日本も有史以来、変わりがなかった。特に、仏教が廃れた明治以降は強まった。天皇崇拝は上べだけけで、実際はお金に執着する例が多く、そのひずみが戦前は売春や女工など、特に女の人に現れた。戦後はさらに強まり、金権政治も強くなったと。自ら金持ちの家に生まれた身障者が「障碍者の幸福は(親が持つ)金で決まる」と発言していたのも覚えている。多くの障碍者が聞けば怒り出すような発言である。しかも、その人はクリスチャン。尚更、おかしいわけである。でも、金を巡って、親子や兄弟姉妹が殺し合う事件も多いし、金持ちは案外孤独からウツになる例も報告されている。経済成長に今の日本国民の多くは飽きているようだ。日本は聖書を読む伝統がないから、イエスの求めたような神に帰依する生き方はできないかもしれないが、お金は大切にしろ、特別なものではないと多くの日本人が悟り、心に重きを置く文明・文化を次第に作っていく気がする。自慢する事ではないが、子供向け文を深めようとしている僕は、その先駆的な生き方をしているのかもしれない。
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