mixiユーザー(id:17922359)

2015年04月18日16:20

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僕が書けることと、書けないこと・ミクシー向け

   先の日記のように、自分の経験に基づくものだから、耳の不自由な人たちへのTVの字幕スーパーのことは大いに書けますね。フェイスブックでは、その訴えについて国会議員たちも熱心に読んで下さりました。非常にありがたいことです。
   でも、書けないと言おうか、僕が書いてはいけない事もあります。昔、元患者の一おばあさんに求められて、東村山のハンセン氏病療養所を個人交友目的で度々訪問させていただいた事があります。それは構わなかったですが、その様子をアメーバで一時体験小説風に書いたことがありました。一人の脳性マヒの旧友から「お前にはハンセン氏病問題は書けるわけがない」と叩かれました。それもあり、その体験小説は中止しましたが、それで良かったと思います。何故なら、ハンセン氏病と脳性まひは問題の根が違うからです。ハンセン氏病の場合、その差別は旧約聖書にも記されてあるなど、太古からのものであり、最も歴史的に根が深い差別です。最近の僕が気が付くに、ハンセン氏病関係に関わる人は、聖書史観など、強い史観を持った人でないと関われないし、文章にも書けません。キリスト教は大体、旧約聖書からの史観に基づく信仰であり、ハンセン氏病関係に関わる人にクリスチャンが多いのも、そのためです。
  一方、脳性まひ問題は日本では戦後になって出てきたもので、歴史的に非常に浅く、史観なしでも脳性まひの運動はできます。脳性まひの運動家の多くは史観は持たず、歴史にも疎い例ばかりです。僕も史観は持っていません。
  両者は混同できないし、脳性まひを持つ僕がハンセン氏病関係を書くことは非常に危険なことです。「史観」の問題に気が付いたのも、僕は最近になってからです。昔、一緒に療養所に行ったボランティアの人たちも元患者たちには話もできない状態でしたが、彼らも史観などは持っておらず、したがって、ハンセン氏病差別自体も理解できなかったわけです。
  ちなみに、「史観」とは何か?と聞かれても僕は困ります。僕もそれ自体判らないから、答えようがないわけですが。
  史観はともかく、誰でも書いてはいけないこともあるわけですね。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月18日 18:40
    ハンセン病患者はハンセン病に分類されるのではなく、ハンセン病にかかった人間に分類されます。その人間であると言う点では患者ではない人間と共通すると思います。ハンセン病の人のことが分からないと言いきってしまうことは差別のように思われます。歴史的な限定もありますがそれにこだわるとやはり差別に至るように思われます。人間であるという言葉は普遍的な概念です。それを認めるか認めないかがあるのではないと思われます。キリスト教が世界宗教になったのは普遍概念を人間について共有するからではないかと思われます。最近のヘイトスピーチなど差別が強調されることが多いことから、こんなことを思いました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月20日 13:54
    > mixiユーザー 
      もちろん、医学的な理解は誰でも必要ですね。ただし、何がハンセン氏病差別か?という定義ができるでしょうか。元患者たちの見解も本当は一人一人違うのが現実です。ある元患者は「遺伝性病気だと思われたのが差別の根本。伝染性が確認されて、差別は消えた」と方々の人に言いふらしていました。それには異論もあるようですが、本人の見解だから、誰も批判はできないわけです。実際は本当に多様な見方があると思います。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月20日 15:04
    > mixiユーザー 
    今、ふと思った事。今日書いた通り、脳性まひ問題を純粋に追及しても何も判らない。同じ事がハンセン氏病問題にも言えると。僕や仲間たちが昔聞いた元患者たちの話はその類のものが極めて多かった。一人例外があり、それが僕と親しくしてくれたおばあさん。絵が得意で、その話ばかりしていた。でも、そこからハンセン問題もにじみ出ていたはず。今の僕と似ていると。僕だって、脳性まひ問題ばかりミクシーで話していたら、医者しか相手にしないはず。そうでしょ。本来なら、元患者たちも社会参加して、自分の本当に好きな話をしないといけない。そうしないと、差別は消えないわけだが。難しいし、何も元患者に限らず、身障者でもいまだに社会参加しない人も多いと、ヘルパーさんたちから聞いているからね。ハンセン氏病関係だけの問題でもないと。とにかく、純粋に追及すると、ろくなことはないのではないかね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月20日 15:24
    > mixiユーザー 

    異質で同じではないものについて考える手段にアナロジーという方法があります。神のことを考えるのに神とは全く地が人間から類推して考えることが中世のキリスト教徒には必要になったのです。それをたんなる共通性と理解すると神学は人間学になってしまいす。その基礎となったのがローマ帝国の法です。さまざまな文化や宗教そして人種の異なる人々をまとめて出来る限り公平に扱うために、万民法というものを作りました。出来る限り共通項を探し、違いが本質的な物か表面的な見た目にすぎないか、当時の医学ですが、共通の治療が可能なことも参考にして、個人的な主観性を抜きにして、合理的に考えられるところを認めて行こうとしました。それで出来てきたのが自然法その中に人権という思想も含まれています。人間という概念も含まれるかもしれません。最近のヘイトスピーチは個別性や主観性を重んじて、客観性や理性が軽んじられています。全体性を見ないで部分的な知を追求するのは危険だと思います。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月20日 17:06
    > mixiユーザー 
      もちろん、全体性ばかり見ても、ナチスの例の通り、危険だけどね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月20日 18:08
    > mixiユーザー 

    ナチスこそ自分たちの民族しか見なかった部分中心主義です。北杜夫の『夜と霧の間に』を思い出しました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年04月21日 11:28
    > mixiユーザー 
      民族性は難しいね。我々は日本語を話し、正月には歳の変化を祭る。でも、一人一人違う。ステレオタイプ的に「日本人」としてはくくれない。僕が言ったのも「ステレオタイプ的な見方はおかしい」だったわけだ。今はかなり違うが、かつては「障碍者は○○だ」と日本では見られることが多かったし、身障者自身もそのように主張する例もあった。そのように見られて僕は不快だったし、身障者自身のその主張のおかしさも感じていた。

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