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2020年05月25日12:03

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53−8  『般若心経』から『維摩経』へ

53−8  『般若心経』から『維摩経』へ
 釈尊は大衆にも解りやすく説法されていた。『般若心経』は大衆には高度過ぎる。五井先生は、高度なことも、行いやすいように易行道を説いてくださった。西園寺会長は、高度な理論は解らない人達にも高度なことを実践する道を示された。五井先生の時代では、高度な道を受け入れることの出来る人はほとんどいなかった。その道とは果因説の道である。果因説の道は「空即是色」を実践する道である。それと同時に、「我即神也」を掴むために、「色即是空」ではなく「過去はない」の真理が繰り返し説かれた。
 「空即是色」の実践方法として降ろされたのが印である。『般若心経』では「否定を徹底すれば、自己の真実を把握できる、神性顕現も可能になる」ということだった。しかし、大衆には「我即神也」とズバッと言ってもらわないと理解できない。そこで1994年には「我即神也」の印が降ろされた。それとて、五井先生が教えを説かれてから40年ほど経過した後のことである。また、当初「我即神也」の真理は抵抗をもって迎えられたものだ。真理を降ろすにはそれを理解する人がいなければ意味はない。仏典にしても白光にしても、教えを降ろすに時宜が整わなければならない。
 「我即神也」つまり「空即是色」を実現する方法は次のように説かれる。
『真理の一つ法則として、自らの願望を成就させるためには、決まってその願望を確実な理想像として掲げ、しかもそのビジョン(像)にエネルギーを与えつづけるということがある。
だからこそ、毎日“我即神也”の宣言を、印を繰り返すのである。それによって、描きつづけてきた理想像は必ず具体化される。 (中略) “我即神也”そのものの自らの像を心の中にいつも呼び起こしてゆくのがコツである。』(02-07)
 ここで言う願望とは「我即神也」の具現化である。因縁因果の軌道では「我」の「不完全な姿」が現象として投影され、投影された現象によって不完全な自己像が再生産されるという輪廻が繰り返されている。それらは「空」である。無である。正しい神という自己像を抱き、ビジョンにエネルギーを投ずれば、その姿は現実のものとなる。それが自分の天命、世界平和の原点である。―――この果因説の生き方は神聖復活の印に至り、更に深まった。
 一般的な固定観念では「色即是空」が出来た後に「空即是色」となる。しかし、現象世界のプロセスが「空」であるならば、順番などどうでもいいことになる。この類の固定観念すら超えよと言ったのが『維摩経』である。その代表的な言葉は「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」というものである。釈尊は「苦の原因となっている煩悩を無くしなさい。正しい行い、修行を積めば、涅槃に入れるのですよ」(四諦八正道)と説いた。それに対し、『般若心経』は「無苦集滅道」(四諦は無)と「良いことも悪いこともプロセスというものは究極的には無だ」と宣言した。そうであるならば、『煩悩などというものは、断ずるも断ぜないもない。初めから実際にあるものではない。ただ本心の前を通り過ぎてゆく影に過ぎない。人間が真実、実際に自己としてあるのは、本心、み仏の心があるだけなのだ』(注)と『維摩経』は言う。五井先生もこれには『全く恐れ入った大悟徹底ぶり』(注)と、舌を巻く。
注)『非常識・常識・超常識』P159より引用

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