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2019年10月14日10:53

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50-6   赦し

50−6  赦し
神性も愛も光も形がない。これらがこの世に顕われると赦しになる。赦しは救われの本質である。自分を知ることの本質でもある。光とは赦しの光である。赦しはすべての問題を解決する。赦しによってすべての幸福がもたらされる。
反対に、赦さないことがすべての問題と不幸を呼ぶ。赦さないことがすべての否定的想念を派生させる。赦さないことは責めることである。赦さないことが自他の神性を否定する。無知とは自己の神性を知らないことである。それは赦さないことである。
釈尊は説かれた。
「輪廻は無明(無知)から生じ、無知から解放される悟りによって輪廻は終わる」と。
同趣旨のことが白光誌では次のように説かれる。
『輪廻のカルマとは、人間は不完全で罪深く汚れているものであるという認識そのものに他なりません。』(95-05)
『輪廻が終わる段階、輪廻を超える段階とは、即ち“我即神也”を掴みとった時なのであります。』(95-05)
 また、別の所では原罪と言う言葉を使って語られる。
 『人類の犯した罪とは一体何か。それは人類自らが自らの神性を否定したことにある。と同時に、魂の存在を否定し、肉体のみに自らの存在価値を見出していったことに起因する。
 人類はみな、自らの中にある神そのもの尊厳を否定してしまったのである。これこそ原罪でなくて何であろう。』(07-03)

 神そのものである人類は神界から現象界に降りたった。現象界の自己の姿に惑わされた。自己の神性の本質を忘れてしまった。現象の不調和の姿を自己そのものと思い込んでしまった。現象を「消えてゆく姿」と赦さなかった。自分を責めてしまったのであった。自分のことを神とは想えなくなった。つまり、自己認識において誤てる想念が生じたのであった。原罪といえども、宇宙神を激怒させたことはない。宇宙神は我々の本来の神の姿しか知らない。プロセスにおける「消えてゆく姿」には関知していない。つまり、原初に起こったことは、自分で自分を「消えてゆく姿」と赦し、自分を神と認めればいいだけの事であった。
 輪廻転生が続いた。問題は絡みついた糸のようになってしまった。しかし、どんな複雑な問題であっても解決は一つである。只管、自分を赦し自分を神と認めることだけである。「人間と真実の生き方」で“どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し”と言われるように、自分が自分のすべてを赦しさえすればいいのである。外なる神に赦しを乞うことは真理ではない。赦すのは自分自身である。自分を神と認めるのも自分自身である。自分を神と認めることは“自分を愛すること”である。
 現象世界は混乱の様相を呈している。それは人類一人一人の自己認識の混乱の結果である。現象はすべて過去である。過去はない。自分の不完全性の根拠となった現象そのものはないのである。我即神也。人類即神也。    

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