mixiユーザー(id:17713252)

2021年05月10日09:58

20 view

5月10日 本日の一言メッセージ

クラクラ 〈5/10(月)本日の一言メッセージ+動画+α〉

https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22090 (写真入り記事)

❣「苦難の道の追体験 〜ヴィア・ドロローサ〈Via Dolorosa〉」

イエス様が十字架に付けられるまでに辿った苦難の道が14ステージ(留)に分かれています。一つ一つイエス様の苦しみを思い黙想しながら歩きます。

クリスチャンの巡礼者には欠かさないコースです。しかし、にもかかわらず、霊的でもなければ、聖なる雰囲気もない場所ですが、それがまた良いのです。イエス様はそのような雑踏の中を見せしめのように晒され、苦難を受けながら歩かれたからです。

私たちは、今いるところをヴィア・ドロローサとして、約2000年前のイエス様に思いを馳せたいものです。

歴史のイエス様を黙想することで終わるのではなく、昨日も今日もいつまでも変わることなく生きておられるイエス様に目を向けたいものです。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル人への手紙13章8節)。

今共におられるイエス様に焦点を合わせるなら、慰め、励まし、いやしが与えられます。

イエス様の十字架こそが福音(グッドニュース)なのです。

「すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」(民数記21章8〜9節)。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネの福音書3章14〜15節)。

イエス様を見上げたら救われます。

イエス様の苦難と十字架に思いを集中しましょう。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(イザヤ書53章1〜12節)。

ここに、あなたが求めているすべての答えがあるのです。


🧡【動画メッセージ】
「幸せな板ばさみ人生」
https://youtu.be/pycXuF5_UEU


ハート【新宿福興教会 母の日オンライン礼拝】
https://youtu.be/WZLgZevfg4M


ハート(緑)【御茶ノ水駅前 路傍伝道】(前半)
https://youtu.be/tTYLRju6zbY



※私がバイクに乗り始めたのは16歳です。当時は、こぞって16歳でバイクの免許を取得して、高性能なバイクを乗り回す人がたくさんいました。それに対抗するかのように、「三ない運動」というものが起こり、高校生に「バイクの免許を取らせない」「バイクを買わせない」「バイクの運転をさせない」という社会運動が起こったくらいでした。しかし現代は、バイクの人気は低迷していて、バイク人口は減り、バイクに乗る人の平均年齢がグッと上がっています。そんな中、かつてバイクに乗っていたけれど、しばらくバイクを離れていた年配者がリターンして、バイクに乗る人が増えています。私が限定解除した頃は、教習所で取得できるのは、400ccまでしか乗れない中型免許までで、大型バイクに乗りたければ、難関の限定解除をしなくてはなりませんでした。ところが、現在は大型バイクの免許も教習所で取得できるようになりました。リターンライダーは、もうこの先何年もバイクに乗れないという焦りもあり、大型免許を取得して、大型バイクに乗る傾向があります。それが危険極まりないのです。心は16歳でも体は年老いています。しかも、300kmもでるようなバイクも市販されています。イエス様は、「心は熱していても、体は弱いのです」と、ゲツセマネの園で居眠りした弟子たちを擁護した言葉がありますが、バイクでもそんな世界があり、事故を起こして命を落とす人が少なくありません。体力や年齢やテクニックにふさわしいバイクを選んで乗ると良いと思います。私は、峠最速を目指して走っていましたが、クリスチャンになり、命の大切さと無謀さに気づき、同時、高速道路に乗れる1番遅いと思われるYAMAHAのTW200に乗り換え、今でもスズキのバンバン200という高速道路には乗れるけど速くないバイクに乗っています。それが背伸びしないで乗れるバイクであり、パワーを使い切れますし、私にはちょうど良いです。
神様を知ると、自分を知ることができます。背伸びして、カッコつけて生きたって、神様から見たら滑稽でしかありません。自分の実力や生活レベルにふさわしい生き方がそれぞれの人にあるはずです。人と比べて競う必要はありません。今の自分の実力やキャパを知った上で、そこをスタートラインとして、イエス様と共にそこから一歩一歩歩ませていただけたら、それが1番楽であり、確実な歩みです。今日も、あなたがいるところにイエス様を迎えて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。素敵な一日でありますように。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年05月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031