「泥沼からの脱出」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21255 (写真入り記事)
「泥沼」とは、「泥深い沼」のことをいいますが、「一度落ちこむと抜け出ることが困難な悪い状況」を指していう場合があります。
昨日は、「美人局(つつもたせ)」の話をしましたが、夫婦関係外での性関係を持つことで、その後、関係がこじれたり、明るみに出ることで、泥沼にはまったように解決が困難な状況に追い込まれることがあります。
家庭が壊れ、社会的信頼は地に落ち、仕事は失い、財産も失い、関係者みんなが不幸になる可能性があります。
聖書は、夫婦関係外の不品行や姦淫を厳しく戒めていますが、そこには、神の愛に満ちた意図があります。
神が人の楽しみを奪おうというのではなく、人が不幸になり、破滅的な状況に陥ることから守りたいからです。
そのような関係でなくても、以前、親しい関係であった分だけ、関係が壊れた時には、憎しみが何倍にも膨れ上がります。
裁判所に行って、係争中の双方を調べてみると、多くが、かつては親しい関係であったことがわかります。
愛し合い、信頼し合い、親しかったのに、一たび関係が壊れると、愛が憎しみに変わり、信頼は疑心暗鬼になり、親しい間柄が敵に変わります。
そんな時、かつての良い関係だった頃を思い出したいものです。
冷静になり、自分の問題に目を向けて、悪かった点に関しては謝罪し、相手の過ちに対しては、大目に見て赦すことが出来たとしたら幸いです。
調停は不調に終わりかけていても、一転して、がらっと変わって和解し、関係の回復がはじまります。
もちろん、どうしても妥協できない問題に関しては、譲ってはいけないでしょう。
人生をかけ、命をかけて戦わなければいけないこともあります。
1587年に、豊臣秀吉によりキリスト教禁教令が出されて以来、数多くのクリスチャンが信仰のゆえに殺され、殉教した歴史があります。
これは、強がりでも、自暴自棄になったのでもなく、信仰を守り通したのです。
人類最初の殺人事件は、創世記4章に書かれています。兄のカインは弟のアベルを嫉妬に来るって殺しました。
その時、弟のアベルの血が地に流されました。
神様は、「土地の中から、アベルの血が復讐を叫んでいる」と言われました。
「そこで、(神は)仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。』」(創世記4:10)
血は語るというのです。
刑事ドラマで主人公の刑事が、「殺された被害者の無念を晴らす!」というセリフを聞いて、死んで終わりではなく、血は神に「復讐して下さい!」と叫んでいるに違いありません。
しかし、キリストが十字架で流された血は、違うことを叫んでいます。それは、赦しと救いです。
「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」(ヘブル12:24)
この救いを受けた人が、簡単に妥協して信仰を捨てることができるでしょうか。
しかし、忘れてはいけないことがあります。殉教したのは、私たちと同じ弱さを持った人間なのです。
殉教は、究極的の出来事ですが、そのことをあえて挙げたのは、それと比べたら、人生において譲れないことはそう多くはないのではないでしょうか。
悪かった点に対して謝罪し、相手の過ちを赦したならば、あとは神に委ねていきましょう。
泥沼状態に陥った時、いくらもがいても、もがいても、泥がからみついて来て、もっともっと沈んでしまいます。
そんな時、神に委ねることです。
イエス様の十字架は、たとえるなら、神が人の姿になって点から下り、私たちの罪の泥沼、悪魔の奴隷の泥沼、病気の泥沼、問題の泥沼、死の泥沼の中に飛び込んで来て、自らのいのちを捨てて、私たちを救い出して下さったようなものなのです。
神に委ねたら、イエス様が救い出して下さり、解決させて下さいます。
出来ることをし、あとは神の手に任せましょう。
やがて、泥沼から浮上して、脱出出来る日が来ます。
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