「喜ぶ人と共に喜び生きよう!」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/20828 (写真入り記事)
20世紀フランスの作家、思想家の「ベルナノス(Goerges Bernanos、1888〜1948)」は、『他人の喜びに喜びを見出すこと。これが幸福の秘訣である。』と語りました。
しかし、「自分の喜びに喜びを見出すこと」こそ、幸福の秘訣であると考えやすいものです。
お金持ちになり、豪邸に住み、高級車に乗り、豊かな生活をしている人や、権力があり、有名人として生きている人の方が幸せだと考えやすいと思いますが、実際は、成功者ほど孤独であったり、物質的には豊かなのに心がすさんでいる人が案外いるものです。
豊かであることは素晴らしいですが、真の幸せは、「自分の喜びこそが喜びだ」と考えるのではなく、「他人の喜びに喜びを見出す」生き方にあるのではないでしょうか。
私は牧師として、「関わる人が幸せになること」をひたすら願っています。聖書の言葉を語りながら、喜んで聞いてくれている人の姿を見て、無上の喜びを感じます。
他人の喜びに喜びを見出そうとしたら、幸せを感じます。
しかし、他人の喜びに喜びを見出せないと、そこに忍び込んで来る感情は「ねたみ」です。
自分の幸せだけを願っても、世の中、自分より幸せそうな人はいくらでもあります。その人に「ねたみ」を感じた途端、不幸を感じ、惨めな思いになります。
自分の心の貧しさに原因があると気付けたら望みがありますが、不幸と惨めさの原因は、相手のせいだと考えると、不幸の連鎖が始まります。
世の中で、相手を否定したり、非難したり、いじわるをしたり、何らかの悪意を持ってやって来る人は、ほとんど間違いなく「ねたみ」の感情がどこかに潜んでいるものです。
ねたむ相手が持っている自由とか、富や豊かさとか、他者からの賞賛や栄誉など、自分がほしいと思っているものを横取りされてしまったように思って腹が立つのです。
相手の喜びに喜びを見出せたとしたらどうでしょう?
つまり、「よかったね」と心から言ってあげることです。一緒に喜ぶことができたら、絶対に幸福になるし、喜びに溢れて来ます。
そしてさらに、もう一歩進んで、他人の喜びのために仕えたいものです。
他人の喜ぶ顔を見るために自分を犠牲にして、相手に与えるように生きたら、最上の幸せと最上の人生になります。
イエス・キリストは、まさに他人の喜びのために仕えた方です。
他人の喜びのために、他人が持っている不幸を身代わりに背負って十字架について死なれました。
十字架の死によって罪を赦し、悪魔を追い出し、心と体の健康を与え、祝福を与えられ、天国に入れて下さいます。
イエス様は、私たちの喜びに仕えるために生きられました。
私たちは、誰かの身代わりに死んだり、十字架にかかることはできませんが、しかし、そういう思いで生きることは可能です。
天国と地獄は死んでから行く場所ですが、天国と地獄の幸・不幸は、この世の中ですでに先取りして味わうことができます。
他人の喜びに喜びを見出し、他人の喜びに仕える人の心はすでに天国の前味を味わっています。
しかし、自分の喜びだけに喜びを見出そうとしている人の心は、ねたみが付きまといますので、心は地獄を先取りして味わうことになります。
あなたは愛されています。
あなたの喜びを喜んで下さり、あなたの喜びのために仕えて下さっている方がいます。
その愛に感動し、その愛を受け止め、今度はあなたも、他の誰かの喜びを喜びとし、喜びに仕えて参りましょう。
ログインしてコメントを確認・投稿する