「生きる目的」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/20742 (写真入り記事)
私の人生の目的。これは探し出し、つかみ取ったのではなく、与えられたものです。
牧師となって、今のような生き方をしているのは、子どもの頃には想像もつきませんでした。
神学校に入学して、将来牧師になるための準備をし、訓練を受けながらも、今のような牧師になるとは、想像できていなかったと思います。
しかし、18歳でクリスチャンになった時、人生の目的がわかりました。
神様が目的を持って私を造られ、私のために計画を持っておられる。
これからは、自分のために生きるのではなく、キリストのために生きていくんだと。
しかし、目的を見失うことがありました。空しくなりました。
目的を見失うと、人と自分を比較して、自分が勝っているということに喜びを感じ、自分が劣っているということにつらさを感じました。
クリスチャンになって、あんなに喜びが溢れていたのに、これは一体なんだろう?と感じました。
せっかく人生に目的が与えられたのに、いつの間にかそれを忘れてしまったのです。
聖書には、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」(ルカ16:10〜11)と書かれています。
忠実であり続けるためには、目的を知っている必要があります。
昔ロシアの刑罰に、A地点の水を汲んでB地点に流し、B地点の水を汲んで、A地点に流すことを繰り返す。
あるいは、A地点からB地点に土を運んで山を作り、作り終わったら、B地点の山を崩してA地点にその土を運んでA地点に山を作るという刑罰があったそうです。
ほとんどの囚人は気が狂って発狂してしまったそうです。
やることに意味も目的もないからです。
同じような作業でも、水を汲んで花壇に水をまいたり、土を運ぶことに意味や目的があるなら、ほとんどの囚人の目が輝いたはずです。
私の人生は神様のためにある。自分のためではない。
自分の栄光を現すためではない、神様の栄光を現すためにある。
自分を伝えるためではない、キリストの福音を伝えるためにある。
人々に仕えさせるためではない、人々に仕えるためにある。
人生が空しい。生きるのがつらい、などと感じるとしたら、その解決のためにイエス様を心に迎えて下さい。
イエス様は、ラオデキヤ教会に向けて、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録3:20)と語られました。
教会に通っていたとしても、洗礼を受けていたとしても、イエス様を心の外に締め出している人がいることを教えます、
イエス様と出会えば人生の目的がわかります。
その目的を見失わないで生くならば、人生はどんな状態であったとしても充実しているし、幸せを感じられるものです。
この幸せを分かち合うために、今日もいのちが与えられているのです。
今日も素敵な1日でありますように。
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