「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも・・・一体誰のせい?」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/20145 〈写真入り記事〉
うまくいかないことをすべて人のせいにする人の数は多い。
だから、うまくいかないことを自分のせいだと考える人が居たら、「えっ!?」と思うのではないでしょうか。
しかし、表向きは、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもすべて私のせい」と言っていても、心の中ではイライラしているものではないかと思います。
自分を責めても責めきれないし、責めた結果、それを次回に向けた教訓としていくなら健全です。
車のブレーキは、摩擦させることで減速させるため、ものすごい熱を発します。
以前、バイクで富士山五合目から飛ばして降りてきたら、過熱でブレーキの効きが悪くなるフェード現象が出たので、これは危険だと思って、すぐにバイクを停車させました。
だいぶ時間が経ったので、ディスクブレーキが冷えただろうと考えて、ちょっと触れてみた。
「熱ちっ!」
大変な高熱で、火傷をし、水ぶくれができてしまった。
それは私の責任です。ディスクブレーキが熱いのにそれを触ってしまったのは私だからです。
最近のハイブリッドカーでは、「回生ブレーキ」といってブレーキで過熱された熱をエネルギーに利用するというシステムがある。
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもすべて私のせい」と言って、自分に責任が有ると考えるのは、ブレーキをかけて熱をためこむことに似ている。
そのエネルギーを回生させて、感謝や前進に向けられたら素晴らしいと思います。
「すべて私のせい!」と考えたら、その行き先は、自虐的、自罰的、内罰的になる。
行き着くところは、自分を傷つけ、自害することにつながる。
そこに行く前に、人は、「すべて私のせい!」から、「私にも責任の一端はあるが、あなたにも責任があるんじゃない!」と人を責めるようになり、「すべて人や状況のせい!」と考えるようになる人もいます。
人類の先祖であるアダムは、妻に禁じられた木の実を食べるようにと誘惑されて、食べてしまった時に、神様から怒られることを察知して、神様から隠れました。
神様はアダムに、「あなたは、どこにいるのか?」と探しに来られました。
『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』(創世記3:8〜9)
罪を犯した人は、相手の目を真っ直ぐに見られなくなります。
アダムが神様に罪を犯していなければ、「はい神様、私はここにおります」と、すぐに出て行ったことでしょう。
この時のアダムは、かくれんぼ遊びをしていたのではないのです。
最初アダムは、自分を責めたことでしょう。しかし、次に、「私を誘惑した妻のエバにも責任があった。エバが悪い!」と考えるようになり、最後は、「妻のエバを造り、エバを私に与えた神様、あなたが悪いのです!」と矛先を神様に向けました。
怒りを持ち、エバと神様を裁いているアダムの心には平安がありませんでした。
それは正しい心ではないからです。
罪を犯すように選択をしたのはアダム自身なので、当然アダムの責任です。
しかし、自分を責めても責めきれないので、その矛先を他に向けたのです。
私たちも、それと似た考え方をしていないでしょうか?
2019年前に、神は一人子イエス・キリストをこの地上に遣わして下さり、人類の罪をイエス・キリストに負わせました。
神は、罪を赦す方ではありません。神が罪を水に流したとしたら、神ではありません。正義が地に落ちるからです。
だから、私たちの罪をイエス・キリストに負わせて、罪を裁かれたのです。これが神の正義です。
イエス・キリストを信じるならば、罪が赦されるのです。
「すべて私のせい!」と、受け止めても、自分を責める必要はないのです。
「こんな私を神は赦して下さった。ありがたい!」と考え、感謝が生まれ、「この喜びを他の人にも伝えたい!」と考え、前進していくのです。
イエス・キリストの十字架は、自虐、自罰、内罰を回生させて、感謝と前進につなげて下さるのです。
人を裁くのは神であり、人の犯罪を裁くのは法律です。
私たちは、自分の責任を認め、それを神に告白して赦しを頂き、感謝しながら前進していきたいものです。
イエス・キリストの十字架に感謝しながら歩んでいきましょう!
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