「動機が大切だが」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/4/26(金)【1461】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19882 〈写真入り記事〉
物事を行う上で大切なのは、「動機」です。
しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル記16章7節)と聖書にあるように、動機は心の領域なので、人は完全に見ることは出来ません。
ちょっとした表情、言葉の端々、雰囲気、立ち振る舞いなどから、不純な動機が見え隠れすることがあります。
政治活動、災害救援活動、慈善活動など、動機の純粋性が求められますが、正しく見極めることは簡単ではありません。
最も純粋な活動である神の愛を伝える伝道活動においても、不純な動機で行われることがあります。
いつも、動機が、「愛なのか?」「欲なのか?」を吟味しながら行っています。
動機が愛ならば、「神様が喜んで下さる」という一点だけで、喜びを持って活動が出来ますが、動機が欲ならば、報われなければ不平不満が出て、腹が立つものです。
一生懸命にやっても、何の報いがないばかりか、反対されたり、誤解されて、誹謗中傷されることもあります。
そんな時、動機が純粋なら、神に祈り、涙を飲みながらも、感謝できるものです。
純粋な動機で神の愛を伝道するなら、次の言葉を適用して下さい。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:11〜12)
動機が純粋な人は、動機が不純な人から誤解されたり、反感を買ったり、迫害されたりすることがあります。
しかし、神様が認めて下さり、神様が喜んでおられるならば、それだけで「良し!」として、喜びおどって下さい。
不純な動機で良い活動をする人を見たならば、それを裁き、避難する前に、次の使徒パウロの言葉を思い出して下さい。
「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」(ピリピ1:15〜18)
私たちも、そんな器の大きさを持たせていただきたいものです。
そして、淡々と、黙々と、自分に与えられた使命を果たしていきましょう。
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