「種なしパン」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/4/21(日)【1457】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19862 〈写真入り記事〉
今日の礼拝は、ユダヤ教の食物規定に従って焼かれた「種なしパン」を使って聖餐式を行いました。
この季節、ユダヤ人は種が入っていないパンを食べます。
本来は、教会でも、種の入っていないパンで聖餐式をしたいですが、すぐに手に入るのは、クラッカーであったり、パンであったりするので、それで代用してしまうことが多いのではないかと思います。
パンの種は、「罪」を象徴します。パン種は発酵すると膨らんで、ふっくらしたパンに焼き上がります。
それがおいしいのですが、罪は困ります。
「誰も見ていないから・・・」
「一度くらい・・・」
「今日で最後にするから・・・」
それが、やがて大きくなってしまうのです。
罪は、認識した時、小さい時に、祈って捨てる必要があります。
罪とは、「的外れ」のことです。
神以上に大切なものがあったら、神を第一に入れ替えることが悔い改めです。
クリスチャンのみなさんに取って、神様より大切なものが無いか、胸に手を当てて考えて見て下さい。
今日はイースターです。イエス様の復活を祝います。
しかし、毎週日曜日の礼拝も、イエス様の復活を祝っているのです。
そして、このように毎週神様を礼拝することこそが人生の中心であるべきです。
礼拝よりも大切なことは本来ないはずですが、礼拝が二の次、三の次になっているということはないでしょうか。
それは、的外れな価値観であり、的外れな生き方です。礼拝することを第一にし、生活の中心に置きましょう。
それが、種が入っていないパンが教えるメッセージです。
また、何よりも、イエス様は罪のないお方です。種が入っていないパンは、イエス様を指しています。
また、焼かれたパンのこげ目は、イエス様が鞭打たれ傷痕、血を流された姿を見せてくれているようです。
ユダヤ人たちも、この種が入っていないパンを見て、食べながら、イエス様を知ってほしいです。
そして、私たちも、罪を認識するたびに悔い改めて、イエス様のように、神を第一にし、きよい生き方をさせていただきたいです。
罪がない状態というのは、それだけ幸せになることであり、豊かになることであり、祝福された生き方なのです。
イエス様を信じ、イエス様を第一にする生き方です。
そうすると、自動的に祝福され、祝福があなたを追いかけてくるのです。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(詩篇23:5〜6)
何と豊かな人生でしょう。いつくしみと恵みに追いかけられる人生を歩んで行きましょう。
その反対は、「悪者は追う者もないのに逃げる。」(箴言28:1)生き方です。
どちらの人生を選びますか?
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