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日記一覧

私の奄美紀行ー45 司祭たちが島の伝道にあたって最も当惑したのは島口(島の方言)だった。聞いただけでは同じ日本人さえ外国語かと思うほどである。もっとも本土内でさえ北と南の端では互いに通じないほど語い、発音、アクセントが異るのだが。 大島では

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私の奄美紀行ー44ここにも奄美宣教のパターンを見る。まず有識者の招請によって布教が始まり、彼らの家族ぐるみの入信、血縁者への伝播と輪を広げ、近隣の集落へと波及してゆく。大熊から浦上、有屋という具合である。フェリエ師一人ではとても間に合わない

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私の奄美紀行ー43一、大熊・集落と宣教 大熊ほど郵便のあて名が簡単な所は珍しい。名瀬市大熊だけで受取人に届く。この集落は名瀬市に合併(1946)前は三方村に属した。名瀬港の北方に湾入した漁港で、大島でただ一つ残っているかつお漁の基地である。

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私の奄美紀行ー42 ゼロム師は名瀬市の南方、西仲勝に土地を購入し施設を造った。昭和30年(1955)来島した幼きイエズスのシスターズは社会福祉施設乳児院「天使園」を開いて、和光園の嬰児を引き取った。こうして闇に消えるはずであった五十名近い生

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私の奄美紀行ー41 この問題でパトリック師は一歩も引かなかった。彼には有力な協力者ゼロム・ルカスゼフスキー師が付いていた。彼は昭和27年に来島し、カプチン会に代わって奄美の宣教を引き受けたコンベンツアル会士である。それに、松原若安氏の役目も

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私の奄美紀行ー40 彼は患者と自分の間に何の隔ても置かなかった。入所者の住居を気軽に訪問し、共にお茶を飲み談笑した。開けっ広げの明るさで笑いを振りまきながら彼らと対等の友人として付き合った。「私も和光園のもの」と彼は言っていた。人々は彼の説

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私の奄美紀行ー39 更にパトリック師は和光園と自らを一体化するため、この聖堂脇に自分の住居とする小屋を作って移り住んだ。 「この小屋に寝台を一つと冷蔵庫と作業机兼調理台を置き、その日からこの小屋が彼の城となった。二メートル近い大男が小さな小

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私の奄美紀行ー38 パトリック・フィン師の来島に先立って、カプチン会の司祭たちもこの状態に深く心を痛め、入所者の心身救済を図った。が、何しろ人手不足である。そこへパトリック師を迎えた。奄美教会のフェリックス・レイ師は願ってもない協力者を得て

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私の奄美紀行ー37 「現在ハ氏病の患者が最も恵まれないで苦しい生活をしている所は地球で何処だろうか。またハ氏病の研究が最も旺んに行われ研究が進んでいる国はどこだろうかと自分でいろいろ調べてみた。彼が思いついたところは日本であった。日本は敗戦

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私の奄美紀行ー36 この和光園と深いかかわりを持つことになるパトリック・フィン神父(トラピスト会)の来島は昭和26年。上陸の月日は不詳だがこの年の初め頃と思われる。彼はハンセン氏病者への奉仕を生涯の使命とした人である。 両親はアイルランド人

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私の奄美紀行ー71●和光園の使徒 パトリック師 和光園とカトリックの関係はいつから始まったのだろう。ここに福音を伝え、聖堂を建てたのは誰だったのか。 奄美和光園が国立療養所として開設されたのは昭和18年(1943)4月。太平洋戦争がようやく

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私の奄美紀行ー34 聖母の騎士社刊葬儀ミサの時間が近づくと、医療機関の人たちも入堂した。今朝、故人の臨終を見とっていた医師の姿もあった。看護婦の白衣も入所者に混っている。 シスター川岡のオルガン伴奏で聖歌が始まっていた。患者たちは目を閉じ、

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私の奄美紀行ー33この日のうちに再び和光園を訪れることになろうとは、誰が思ったろう。しかも通夜と葬儀に出席するために。私が到着した時、和光園の聖堂は花で飾られ、ひつぎの前には果物などの食物が供えてあった。 療養所内の信者たちが、或人は杖にす

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私の奄美紀行ー32夫妻は紬(つむぎ)織りにたずさわっておられるので、仕事場を見せていただいた。気の遠くなるほどの根気と器用さ、熟練を要する。遥氏は男の仕事とされる締め機を受け持つ。泥染めによる伝統的な技法を特徴とする紬は大島の主産業で、女性

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田中宇(さかい)さんより転載:人類の7割が感染し2年以上続くウイルス危機ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーードイツの大衆紙ビルトによると、メルケル首相は3月10日に独議会の非公開の委員会で「ドイツ国民の60-70%が新型コロナウイルスに

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私の奄美紀行ー31 午後は明(あきら)八重子さんと押川遥氏を訪問することにした。昨日の空港出迎えのお礼である。シスター川岡さんとまず明さん宅へ。 香台というものを初めて目にした。座敷の壁や棚に十字架、聖像、聖画、位牌や家族の写真などが飾られ

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私の奄美紀行ー30●或る葬儀 「お昼は私どものところで」 ということで、シスター川岡の車は福音の光修道院に到着した。大熊教会敷地内にある木造二階建の質素な家である。大熊の信者が、これも信者である大工さんの指揮のもとに、寄ってたかって建てたの

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私の奄美紀行ー29 昼近い時刻になった。白衣の指導員たちが配給車から、かいがいしく食事を家毎に運んでいるのに出会った。皆福音の光のシスターとは顔見知りで、笑顔の挨拶を交わしていた。 「ここには納骨堂もあるのですよ」シスター川岡の言葉でそちら

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私の奄美紀行ー28和光園は一つの集落を形成している。島の交通不便な小村より生活条件に恵まれてさえいる。病院があり専門医が常駐し、生活が保証されている。舗装道路が園内中央を貫き、その両側に家族住宅、独身寮、夫婦の棟などがある。ハイビスカス、デ

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私の奄美紀行ー27和光園教会は小川を隔てて、山すそを削って造成した敷地にあった。白亜のいかにも清潔な小聖堂である。前庭にはばんしろうの木に白いかわいらしい花が咲いていた。葉はばんしろう茶になる。ガワバはこの木の実で、ジュースを作る。シスター

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私の奄美紀行ー26ここを出て、私たちは他の病人をも見舞った。二人部屋の女性で、一人はベッドから身を起こしていた。指先が不自由のようだ。訪問を喜んでくれたが、帰りぎわに私たちの顔を見つめながら言った。 「あんた達は、今、世の中が一番面白い時だ

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コロナウイルス後の世界
2020年03月08日07:30

田中宇さんより転載:今後の展開は全く不透明だが、ウイルス危機がこれから何年も続き、巨大な金融崩壊が発生するという前提ですべてのことを考えていった方が良い事態になっている。すべてが終わった後、世界がどんな風になっているか想像がつかない。幸いな

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私の奄美紀行ー25一、南島の秘園悲しみの園 翌朝、思いがけず和光園を訪れることになった。福音の光のシスター川岡から誘われたのだ。大熊教会は浦上、芦花部(アシケブ)、和光園を巡回教会として担当。福音の光修道院はこの大熊教会に専属し、三人のシス

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私の奄美紀行ー24 次に圧政者は牧者を失った信者に「キリスト教そのものが悪い」として棄教を強制した。圧迫は執ようなものとなった。が、投獄とか肉体的な拷問を加えるというのではなかった。精神的な締めつけ、商売の妨害、排斥であった。棄教書(軍人が

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私の奄美紀行ー23一般庶民は軍に協力することによって、自分たちの忠誠心を現わそうとした。奄美における一例をあげれば「防空演習」がある。 「焼夷弾落下!」 憲兵が叫んで信者の店に赤布で包んだ玉を投げこむ。古仁屋では赤旗だったという。すると消防

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私の奄美紀行ー22 「家族はおばの身が危ない、と感じ、隠し場所を探しました。隠し場所を探しました。おばの実家はこの浦上です。ここから歩いて四十分ほどの山の中に洞窟があります。以前はここに寝泊まりして山畑を耕した所です。ここにおばを隠すことに

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私の奄美紀行ー21 この二班の司会者は福永網男氏だった。福永という姓で「カトリック排撃」時代の女丈夫熊千代産婆さんを思い出し、もしや親せきでは、と尋ねてみた。 「私は熊千代の甥です」 という答えが返ってきた。本当によい人にめぐり合わせたこと

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私の奄美紀行ー20一、浦上教会の班会 大熊(だいくま)の福音の光シスターズに会うことが、目的の一つだったので到着を知らせた。すると今夜八時から大熊教会地区の班会があるから、と出席をすすめられた。こうなれば計画はすべてあなた任せである。第二班

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私の奄美紀行ー19 砂州(リーフ)に幾重にも寄せる波がエメラルド色の海に不規則な優しい白線を描いている。白い雲をうすく掃いた紺碧の空の下に喜界島の姿も見える。瀧師はこの島の出身とのこと。喜界島黒糖(キャーサタ)はアクが少なく、土産品として、

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私の奄美紀行ー18●絶景のあやまる岬 瀧師のワゴン車に再び乗せていただき、一行四人は教会を出発した。空港からの同じ道を逆に南下して名瀬に向かうのである。教会墓地前を通ったので下車した。海辺に面した一部には白く塗った単純な形の十字架が立ち並ん

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