mixiユーザー(id:1762426)

日記一覧

 そして家出、最底辺の人夫暮らしをした後、廻船業者だった父親の死後、神戸の店を引き継ぎ、そして更に紆余曲折の後、当時11、000人の貧民が暮らす(神戸のスラム)葺合新川の貧民窟に暮らし、キリスト教の布教活動を始めるのだった。「死を決しても貧

続きを読む

私の奄美紀行ー72栄島氏は一行の昼食場所を求めて車を東に進め、き鉄の浜に出た。海峡を越えた真向いに加計呂麻島の待網崎、また海峡の東入口が眺められる。この砂浜で奄美の園のシスターズのご好意によるお弁当を広げた。●加計呂麻島記念碑とマリア観音 

続きを読む

死線を越えて:賀川豊彦著」を読む 2017年5月8日 北海道新聞の日曜版にある、本と旅する、で知ったこの本、昨日とうとう読み果(おお)せた。400万部売れたという大正時代のベストセラーというが、くどいまでの人物描写や、聞いたことのない言葉使

続きを読む

私の奄美紀行ー71 古仁屋に入り、海岸をそれた。古仁屋高校前である。私たちは下車して校門に歩みよった。松の木立の中のキャンパスこそ陸軍要塞司令部跡である。奄美における昭和の弾圧「カトリック排撃」の火付け役が、この要塞司令部の上級将校であった

続きを読む

私の奄美紀行ー70 今でこそ道路が通じ、人々は生活必需品として車を所有している。が、かっては入江の奥にしがみつくように形成した集落の一つ一つが孤立していた。これは海上にしろ山中にしろ大島全体に言えることである。奄美の人が集落をシマと呼んだこ

続きを読む

私の奄美紀行ー69さて、六月五日、明日はいよいよ南大島に出発である。私は浦上からバスで行くつもりだった。が、私の目的を知った福音の光のシスターズが、「私たちも奄美の歴史を知りたいから」と、明松師から休暇を得て、同行することになった。車という

続きを読む

私の奄美紀行ー68一、南大島の探訪●旧要塞の町 奄美旅行のもう一つの目的に南大島があった。昭和の弾圧「カトリック排撃」震源地、旧陸軍の古仁屋要塞跡を訪ねてみたかった。それに戦後の瀬戸内町におけるカトリックの姿が知りたかった。 奄美へ出発前の

続きを読む

私の奄美紀行ー67今日の北大島西海岸の教会めぐりは、この赤尾木までとした。 奄美では集落のことをシマと呼ぶ。以前は交通の不便からそれぞれの集落が陸の孤島のように孤立していた。そのシマ毎に小さな聖堂が建っているのを見てきた。このような光景は長

続きを読む

私の奄美紀行ー66奄美の乳児院、養護施設、保育園がであったように、宣教師がまず基金を集めて土地を購入し建物を作る。その後で女子修道会に呼びかける。それに応じた修道会がシスターズを派遣すると、施設を完全に渡してしまう。「これはあなた方のもので

続きを読む

私の奄美紀行ー65 赤尾木は北部の笠利と竜郷地区との接点のような地峡だ。最狭地点からは北に東シナ海につづく笠利湾と、南に広がる太平洋とを同時に目にすることが出来る。赤尾木教会は敷地も広く、庭のガジュマルは見事である。この樹下で林間学校のクラ

続きを読む

私の奄美紀行ー64次に立ち寄ったのはブイジェ師の終焉の地、瀬留の教会である。主任司祭は日曜の午後とあって外出中、聖堂は鍵がかけてある。多分、巡回教会のミサに出向かれたのだろう。この教会には秋名、嘉渡、安木屋場、竜郷、赤尾木、大勝の六ケ所が巡

続きを読む

私の奄美紀行ー63このあたりに竜郷の巡回教会がある。中には入れなかったが背後に回ると美しい浜辺だ。笠利湾はこのあたりから竜郷湾と赤尾木湾に分かれる。湾の浅深によってエメラルド色の水が鮮やかに濃淡を変える。あちこちに突出する小さな岬とその陰に

続きを読む

私の奄美紀行ー62西郷三十三歳。あの巨体が謹厳に正座した姿は小さな民家の一室に溢れるばかりであったろう。昼は村の児童に読み書きを教え、「夜分は青少年を集めて聖賢の道を講じ、英雄の事績を説いて彼等を啓発」(前掲書)したとあるが、この西郷の生徒

続きを読む

私の奄美紀行ー61平家伝説で道草をしてしまったが、安木屋場教会を後にして車は海岸を離れた。  「あれが全部ソテツの自生地です」 押川氏が山を指さした。この重なり合った山全体がソテツの群生林とは!鉢植や庭木の鑑賞物ではない。原始から奄美があっ

続きを読む

私の奄美紀行ー60 事のてん末を知った浦上の有盛も失望落胆して自刃。加計呂麻島の資盛は既に没していた。風のそよぎにも追討を恐れる落人の悲しい運命とは言え、あまりにもはかない末路である。島人は三将の居城跡にそれぞれの名を冠した神社を建てその霊

続きを読む

私の奄美紀行ー59海岸線の先に見える今井崎と、笠利湾をはさんで対峙する蒲生崎は平家落人の伝説地である。伝えによれば、奄美に落ちのびた平家の武将は平行盛(ゆきもり)、有盛(ありもり)、資盛(すけもり)の三人。行盛は大島北部の戸口に、有盛は中央

続きを読む

私の奄美紀行ー58この秋名地区は平瀬マンカイ(国指定の無形文化財)で知られている。これは四百年前、つまり琉球服属時代から伝わる行事で、毎年旧暦八月「初ひのえの日」に、秋名湾の平瀬浜で夕方から古式そのままに行う。ノロ神(男性)と女神人たちが向

続きを読む

私の奄美紀行ー57 私たちは彼女をここに残して出発した。山中の曲折した道を過ぎると秋名漁港である。 「あれが秋名教会」 と押川氏の声。道の左手、木立の向こうに十字架が見える。ここからは瀬留の教区となる。大島でも辺境と言えるこの小さな漁港にも

続きを読む

私の奄美紀行ー56細い杉板を張り並べた素朴な天井、木地のままの祭壇、二階へ通じる頑丈な階段、すべて年代に洗われて木目もあらわである。いまだに一分の狂いもないという蹴上の高い階段を上れば二坪ほどの部屋に出る。かっての司祭室である。壁の一ヶ所に

続きを読む

私の奄美紀行ー55午後は北大島西海岸の教会巡りをすることになった。これも思い掛けないプレゼントである。私が南大島に行く予定のあることを知った押川氏が 「南に行くならシスターはもっと北を知るべきだ」 と案内役を買って出たのだ。福音の光の車でシ

続きを読む

私の奄美紀行ー54一、辺境の海岸をつなぐ聖堂●芦花部(あしけぶ)〜安木屋場(あんきやば) この日、奄美第四日目のミサは浦上教会。大熊教会主任司祭の巡回教会の一つである。大熊に隣接した集落で、人口1000、信者数353。信徒人口比は33・5%

続きを読む

私の奄美紀行ー53田代夫人晴子さんや大熊の明八重子さんは大島高女の卒業生だった。現在の奄美高校の校舎はこの過去の歴史の上に建っている。放課後の校庭には生徒の影もない。背後に迫る丘や校舎の位置はおそらく昔のままであろう。私は晴子夫人へのお土産

続きを読む

私の奄美紀行ー52 大島高等女学校の開校は大正13年(1924)4月。これが大島最初の女子高等普通教育機関だった。その創設は名瀬の識者が宣教師団に対して懇請したことによる。奄美は大正10年(1921)よりパリー外国宣教会に代わってカナダ・フ

続きを読む

私の奄美紀行ー51河内夫人の勧めで、山手の古田町にある聖マリア教会へバスで行くことになった。ここにはアシジの聖フランシスコ宣教修道女会の修院があり、主任司祭を助けて宣教活動にたずさわっている。聖マリア教会は三ヵ所に巡礼教会を持ち、その一つに

続きを読む

私の奄美紀行ー86市街中心地にある聖心教会の前庭には奄美最初の使徒、ヨゼフ・ベルナルド・フェリエ師の胸像がある。名瀬は大熊も含めて、空襲により九割は焼失した。師の創建した教会もその時失われた。戦後再建し、「煉瓦み堂」と呼ばれ、信者の誇りであ

続きを読む

私の奄美紀行ー49海岸には巨大な珊瑚石灰岩の絶壁がそそり立ち、厚い照葉の亜熱帯植物が岩肌にしがみ付いている。海中に点在する形面白い岩礁、濃緑の岬の曲線、南国の強い陽光を照り返す旗のような糸ばしょうの葉。奄美である。 高倉(奄美の穀倉)をかた

続きを読む

私の奄美紀行ー48一、大浜海岸と名瀬 奄美に来てから自分でスケジュールを作ることをやめた。周囲の親切な人たちが助言し、お膳立てをして下さる。時間もあなた任せで、すっかり肩から力を抜いた。 この日(三日目)もカリタスのシスターから大浜海浜公園

続きを読む

私の奄美紀行ー47 このような村の伝統的行事の拒絶は村人の怒りを挑発するに十分だった。「交際断交」と称された事態が起こったのである。つまり村八分である。いやがらせ、妨害が信者に加えられ、村の共同生活からはじき出された。しかし、これが続くうち

続きを読む

私の奄美紀行ー46 今では共通語が日本のどこに行っても通じる。私のまわりでも、奄美の人たちが島口で話し合っていたと思うと、私に向かってはたちまち立派な共通語で話す。その使い分けが実に見事である。まるで二か国語を採用している国に来たような気分

続きを読む